約束された場所

今週の月曜日はアメリカでは数少ない祝日の一つ、『Martin Luther King, Jr. Day』(キング牧師の誕生日)、国際政治の課題を読むのに疲れて何気なくFacebookを見ると、クラスメートがキング牧師の演説をアップしていた。キング牧師の演説と言えば“I have a dream”が一番有名だと思うけど、アップされていたのは“The Mountain Top”、キング牧師が暗殺される前日、急遽行うことになった彼の人生における最後の演説。


その映像に見覚えがあったのは、高校生のときに見ていたNHKの『映像の世紀』の中で、強く印象に残った映像の一つがキング牧師のその演説だったから。はっきりした理由はわからないけれど、大衆を前に話すキング牧師の言葉に、希望と、充足と、哀しみと、さまざまなことを必死に見つめ続けてきたからこそ得ることができたであろう輝きを見たからかもしれない。そして同時に、その輝きが永くは続かないだろうことを感じたからだと思う。


大衆の前の演壇に立った彼は、原稿も持たずに話し始める。


『この先にも我々には困難な日々が待ち受けているでしょう。しかし、それはもう私にとって大したことではないのです。私は山の頂に立つことができたのですから。』


『もちろん皆さんと同じように、私も長く生きたいと思う。しかし、今の私にはどうでもいいのです。今はただ神の意志を実現したいと思うのです。彼は私が山の頂に立つことを許してくださいました。そして、私はそこから見渡しました。そこから約束された場所を見ることができたのです。』


『私は皆さんとともにそこに行くことはできないかもしれません。しかし今夜、皆さんに知っておいていただきたいことがあります。それは、我々はいつか約束された場所にたどり着くことができるということです。』


『私は幸せです。何も心配していません。誰のことも怖れてはいません。神の栄光が降り立つのを、私はこの目で見ることができたのですから。』


たぶん彼は長生きしたかったのだろうと思う。そして同時に、彼は長くは生きられないことを悟っていたのだとも思う。自分が成し遂げたことへの充足、それによって見ることのできた人々の幸福、代償として削られていく人生、自分が選び、歩んできた時間を静かに見つめる眼差しが、言葉のちからとなって心に響く。


彼は黒人の公民権のために闘った。それはたぶん、他の誰かのためであるとともに、自分のためでもあったのだろう。誰もが必要とする他者からの承認を求め続け、得ることができたからこそ、他者の幸福のなかに、自分へと射し込む光を見ることができたのだろう。


映像を見るうち、ぼくはふと、彼が人々の自由の先にどのような『約束された場所』を見たのか知りたいと思う。闘いが終わり、みなが自由を得たあとに、どのような承認のかたちがあるのか、自由が訪れたあとにも、人は人とのつながりを必死に求めようとするのか、知りたいと思う。


2007年に逝去した河合隼雄は『人と人とは、幸福よりも悲しみよってつながることができる』と語った。人々が世界のどこかに存在する見知らぬ誰かのために涙を流し、そこに同じ何かを見ることができるのも、悲しみから逃れられないものとしての人間を愛おしみ、慈しむからなのだ。キング牧師の最後の演説が心に響くのも、黒人に自由をもたらしたという事実だけではなく、その承認の代償として彼の人生は長くは続かないという事実を、彼自身が喜びも悲しみも入り交じった気持ちで愛おしく思えたからだろう。


幸せとはたぶん、他人のために生きると同時に、自分のためにも生きること。何かを達成すると同時に、何かを達成できない自分を、そして、それと同じく生きる者として存在する誰かを、許し慈しむことのうちにあるのだろう。


もしあなたが、ぼくと同じくキング牧師の最後の演説に心を揺さぶられるとしたら、たぶんそこに彼の幸せを見ることができるからなのだろうと思う。自分と同じく、様々なことに悩み、どこにも行く着くことのない思いを抱えていても、それでも幸福を感じて生きた人が確かにいたことを、その言葉や、眼差しから、信じることができるからなのだろうと思う。


この世界に生きる全ての人が、それぞれの中に『約束された場所』を見ることができる。『自由』や『承認』といったものの実感が曖昧になっているこんな時代でも、きっといつか彼が見たような『約束された場所』にたどり着くことができる。そう信じることができる何かを、彼の姿に見ることができるからなのだろうと思う。


キング牧師、最後の演説』

http://www.youtube.com/watch?v=o0FiCxZKuv8&feature=related


最近あまり写真をとっていないので、懲りずに年末にとった夕陽の写真。今年はもっと写真を撮らないとね。