ふれることのできるぬくもり


3月15日に発生した東北関東大震災による被害は今も広がり続けている。それは、あまりに大きいため、実際、どれほどにわたって影響を及ぼすか想像ができず、全体像をつかむことにすら時間がかかるだろう。ぼくはアメリカでこの惨禍を知ってからというもの、勉強が全く手につかず、翌日に試験を控えながらも毎夜、U-STREAMでNHKのニュースに耳を傾け続けている。


正直に言って、ぼくにまだ日本で起きていることをどうとらえてよいのかかわからずにいる。誰も考えなかったほどに甚大な被害を引き起こしていること、それによって多くの人の命や生活が損なわれていること、そういった全てについて、これからの自分がそれにどうコミットできるのか、今はまだ判断をすることができない。


現地で被災して命を落とした人、負傷した人、心に大きな傷を抱えた人、たった今も救助を求めて苦しんでいる人、それを救おうと危険を顧みず必死に活動を行っている人、そんな人々とはくらべるべくもないのはわかっているのだけれど、日本がこのような状況になっていることに、言葉にできないほどの衝撃を受け、それを心の重みとして引き受けているという意味においては、距離とか時間とかとかとは関係なく、ぼくたちみんなが被害者であり、被災者なのだろうと思う。


苦しんでいる誰かのためになろうと思う気持ち、一日でも早く前に進んでいきたいという気持ちはとても尊いものだと思う。しかし、その前に少し自分自身の心に思いを巡らせてほしい。今日もニュースで流れ続ける悲惨な状況に心を痛め、自分の無力さにやるせない思いを抱くそのときに、そんな自分がふれることのできる身近なぬくもりに救いを求めてもよいのだと思う。


何をしてよいのか多くの人が途方に暮れているこんなときだからこそ、自分が誰かと共有できるささやかな何か、人と人とが静かに、フィジカルなより添うところに感じられるほのかなあたたかさみたいなものこそが、いまは必要とされているのだろう。


そして、冷え切った体と心をとかしてくれるぬくもりに生きていることの幸せを感じ、そこで呼吸を整えてからしっかりと小さな一歩を踏み出そうとする思いのいくつもの集まりが、もしかしたらこれからの日本をどこかに進めていくことができるのかもしれないと思う。


画像はUCSDで行っている募金活動。人数や金額ではかることはできないけれど、誰かがいまも日本のことを思っている。