たしかめられない


気がつけばあと数日で5月に入ろうとしているけれど、未だに春を迎えた実感が湧かないのは、まだ一度も桜を見ていないからかもしれない。この頃のサンディエゴはとても気持ちのいい天気が続いていて、高くまで澄んだ空や学校から見える海は、宿題に追われてついついあくせくとしがちな心にささやかなゆとりを与えてくれる。春学期に入って一か月が過ぎ、今週と来週は中間試験の期間、渡米して既に8カ月が過ぎたけれど、もともと追い込まれないと勉強を始めない性格も手伝って深夜まで勉強に終われる日々が続いている。


3月に発生した東日本大震災をサンディエゴで体験(敢えてこの言葉を使う)してからというもの、半月以上にわたりUCSDに在籍している日本人学生とともに、日本への募金や日本で起きていることの情報発信をはじめとした活動に取り組む日々が続いた。どちらかと言えば集団で行動することがあまり好きでないぼくにとって、少しでも大きな効果を上げるべく昼夜を問わずさまざまな年代の日本人学生と一緒に活動したこと自体がとても新しいことだったし、それはいろいろな意味で多くのものをぼくにもたらしたと思う。


多くの人の協力とアイデアによって募金額は200万円近くに達し、偶然UCSDで開催されていたクリントン元大統領のイベント(CGIU)での活動も予想以上の成果を収めた。その過程でさまざまな人が持つ日本への思いに接することになったし、そのときに心のなかに感じた小さなあたたかさの集まりのようなものは、きっとこれからもぼくがどこかに進むときにそっと背中を押してくれるだろう。


前向きなテンションを保ちつつイベントを進めていた期間にもひと区切りつき、関係した人たちによるとても楽しい打ち上げが数日間続いたあと、少し落ち着いた気持ちになって周りを眺めてみると、何だか少し自分を取り囲む世界が違って見えた。それは『イベントを通じて誰かのために行動することの大切さを実感した』とか『今まで曖昧だった日本人としての意識をはっきりと認識するようになった』とかいった読書感想文のような意味合いにおいてではなく、どちらかと言えばとてもささやかで個人的な意識の転換。今まで何かを測るときに無意識に使っていた基準のようなものが、距離的にも精神的にもリアルに把握することのできない惨事に少しでも近づこうとする日々のなかで変化したのかもしれない。


それは『世界にあるもの殆どすべてのことは確かめられないし、ぼくたちはその不確実性のなかを毎日進んでいかないといけない』という事実の受容とも言えるかもしれない。それはもちろん地震津波が人々の生活を破壊したという意味でもあるけど、それだけでなく、自分たちがほとんど当たり前のようにして受け入れている人間関係や考え方といったものが、これまで見てきたよりもずっと頼りないものに思えてきたという意味において。


募金イベントを進めているなかでそれまであまり話したことのない人と多くの時間を過ごし、ふとした機会に彼ら彼女らと何気ない話をしているなかで、きっとこの震災が人々にもたらしたのは、直接的で物理的なインパクトだけでなく、『不確実性』というチャンネルを通じてやってきた、当たり前の生活への揺さぶりのようなものなのだろうと感じるようになった。それは日本への思いという抽象的なものよりは、働くことの意味、家族や恋人や友人との関係、そして毎日を当たり前に生きるということのなかにあった信仰のようなものへの揺さぶりと言い換えてもいいかもしれない。


被災地を含めた国家の復興、原子力をめぐる問題、財源確保のための増税議論など、マクロな問題がマスコミでさかんに取りだたされ、あるいは被災地における美談や日本人の団結といったことがさまざまなメディアを通じて伝えられるなか、ぼくにとって多くの人々に本当に起きていることは、そういったとても個人的な基盤への揺さぶりだった。そして、そのどれもが個別であり、一見、震災とは直接の関係がないように思えるがゆえに光があたることは稀だけれど、それこそが長期的に人々の心に残っていくのだろうと思った。


ぼくにとってもこの震災は同じような意味を持っていたのかもしれない。イベントが終わって自分のまわりにあるものを眺めたとき、そこにある色や音が違うものに感じられたのは、不確実性がもたらした揺さぶりが、自分のなかにある何かのカタチを変えることになったからだろう。そして、そこには善悪の判断はなく、良きせよ悪しきにせよ、ぼくたちはそれを受け入れて前に進んでいかないといけないのだ。そこで失われたものと、新たに手にしたものを眺め、それを抱えながらもこれからも生きていけるように、不確実なものの上にもコミットすることのできる個別な物事に光をあて、そこに生まれるささやかなあたたかさのフラグメントを集めていく必要があるのだ。


震災が発生してから一か月が経ち、以前と同じとまではいかないまでも多くの人が普段の生活に戻ろうとしているときにあって(もちろん今このときにも被災地で苦しんでいる人々の生活が一日でも早く良い方向に向かうことを願っている)、あわてずに自分の目に映る色や耳に聞こえる音をゆっくり感じてみるのもいいのだろうと思う。もしかしたら、そこにはそれまでには気がつかなかった何かがあるかもしれない。あるいは今まであった何かが失われているかもしれない。その事実を静かに受け入れて深呼吸をしたあと、『たしかめられないもの』の土壌の上に、どれだけささかかで、手作りでいびつだとしても、自分が信じることのできる何かを作りあげていこうと思うとき、それこそはもしかしたら、今回の震災が一人ひとりにもたらした良きものともなりうるのかもしれないと思う。


写真:『HOPE』と書いた紙に書かれた日本へのメッセージを前にクラスメートと折鶴を折る。