大切なこと(部屋の整理をしながら考えたこと)。

年末ですね。というおとで、ボクも荒れに荒れた部屋の整理をしました。
そしたら、昔の作文が出てきました。サルトルに関する作文でした。高校3年生の受験前に書いたものです。


なんとなく読んでいて、考えたことがありました。
それを以下に書いてみようと思います・・・


人について考えるときに、哲学的な思考は必要です、きっと。


『自分とは何か』『友達とは何か』『人とはどうしたらわかりあえるか』
そんな問題にたいして、哲学は何かしらのヒントを与えてくれるでしょう。
なぜなら哲学は、人の人に対する追求であるからです。


哲学は、現実的問題の上になければ意味を持たないのだと思います。
でも、人は哲学をこねくりまわしてはいけません。
答えが出ないからと言って、哲学のせいにしてはいけません。
哲学は人の人に対する追求であるからこそ、もちろん解決できない問題を多く抱えています。
むしろ、解決できない問題を探し出すのがその使命なのかも知れません。


しかし、それにあるのは人の人らしい問題です。
その中には多くの人の個別の苦しみがつまってるのです。
そこにいる誰かに共感するからこそ、人は哲学に救いを感じるのかも知れません。


哲学に提示する困難な問題、トートロジーの中にはまりこんで、したり顔して安住することは哲学に関する本を読んだり、授業を聴いたりしてそれを少しでも理解した人なら誰にでもできるでしょう。


でも、哲学を知り、困難を知ってネガティブな感情におぼれていてはいけません。その問題を繰り返し、それの上に同意を求めてることだけに満足してはいけません。そこから何かが始まるからです。


高校三年生の時のレポートで、ボクはサルトルについて考えました。たぶん正確な理解ではなかった(むしろ見当違い・・・)と思いますが、ボクはサルトルを「励まし」だと捉えました。


『教科書の中のサルトルは、人間の「考え方・あり方」という問題を個人にやさしくつき返し、「さあ、目的を持ってがんばりなさい」と言っていた。』
と高校3年生のボクは書いていました。昔みたいにペシミスティックな視点は持っていませんが、今でもその思いは変わりません。


大切なのは、そこに一般論の中にいることではなく、自分の中にそれを引きつけて、それの困難さの上に何かをすることです。
問題のうしろにいる誰かの力を感じて、前に踏み出していくことです。
もちろん、『何もしない』というのもその中の一つの立派な選択だと思います。


困難を引き受け、それが他の誰の力によっても解決し得ないことを知り、でもその後ろに誰かの共感を受けて、進んでいくとき、
言い換えれば、自分を自分として引き受けて前に進んでいくとき、そこには何かしらの祝福があれば・・・。


ボクはそう思います。
どんな神様がいるか知らないけど、もし神様がいるなら、いろんなところで、誰にも言えずに苦しんでる人にささやかな祝福を与えてほしいとボクは願います。


そして、よくわからないけれど、宗教ってもしかしたらそういうものなんじゃないのかな、とボクは思います。