『沈黙』
最近、読書と散歩とDVD(英語の勉強を兼ねて)という生活を送っているので、家族以外の人に接することがあまりありません。なんか隠居している気分・・・でも結構楽しんでます。働いてからではこんなに自分の時間を持てないだろうしね。
さて、毎年、この時期になると、様々なかたちの恐怖について考えます。
阪神大震災、地下鉄サリン事件、ボクに対して大きく影響を与えたことが次々に起きた時期だからだと思います。
『恐怖』について考えます。
恐怖には様々なものがあります。
眼に見えるもの、解決されねばならない、と社会的に強く認識されているもの。
例えば直接的暴力、殺人・・・。
しかし、眼に見えず、多くの人がその存在に気づかない恐怖もあります。
それはハンナ・アーレントが『忘却の穴』と言ったようなこと。
例えばホロコースト、ある人間が存在したこと自体を消そうとすること、人々の無関心、あるいは無視、彼女の言う『虚ろな人々』・・・
自分が恐怖にいることを誰にも認めてもらえない恐怖、人々から存在を認められない恐怖、誰1人として自分の味方ではない恐怖。
それは他でもない、『普通の人々』によって引き起こされる。
村上春樹の短編に『沈黙』というものがあります。
その中の一節です。
『「でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の話を無批判に受け入れて、そのまな信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。
彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。彼らは自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。
僕が本当に怖いのはそういう連中です。そして僕が真夜中に夢をみるのもそういう連中の姿なんです。
夢の中には沈黙しかないんです。そして夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。沈黙が冷たい水みたいになにもかもにどんどんしみこんでいくんです。そして沈黙の中でなにもかもがどろどろに溶けていくんです。
そしてそんな中で僕が溶けていきながらどれだけ叫んでも、誰も聞いてはくれないんです」
大沢さんはそう言って首を振った。』
ライブドアに対するマスコミの報道、人々のリアクションを見てると、少し不安を覚えます。これはいつでも、どこでも、誰にでもおこりうるのではないのか?
これは、もしかしたら『沈黙』なのかもしれない、とボクは思います。