『ねじまき鳥クロニクル』

poriporiguchi2004-12-14

昨日書けなかった感想。
長いから難しいこと嫌い人は読まなくていいです・・・


例えば付き合っていたり、或いは結婚したりしていて、相手のことがわかったつもりになっていても、ほんとはそんなことありません(結婚したことはないけど)。「お互いにわかりあっている」なんてそんなことわかるわけないですよね。だって、付き合っている相手は自分じゃないわけだし。


じゃあ「愛」ってなんだろう。意味なんてないのかな、ってなるけど、そんなこともない。とても大切なものだと思います。
「ねじまき鳥」の中には色んな形による人とのコミットメントが出てきます。井戸だとかアザだとか、バットとか動物園だとか。しかもそれは主人公が望んだものでもなく、多くの場合、偶然のように生じてくるものです。
「他者性」という問題を前に、それを完全に克服することは出来ません、きっと。だって「他者性の克服」は「他者の自己同一化」以外に達成し得ないように思えるからです。


ぼくが昔、この本を読んで感じたのは、他人との関係において、自分が思ったようなコミットメントをしたからといって、それが両者とつなげるとは限らないということ。
第二巻(だっけな)の中で主人公(岡田亨)は笠原メイ(近所の女の子)に向かって言います。

「ねえわかるかな、六年前に結婚した時、僕らは二人でまったく新しい世界を作ろうとしていたんだ。(中略)僕らはその新しい世界で、本来 の自分に相応しい自分自身というものを手に入れようとしていたんだ。僕らはそこでもっとうまく、もっと自分自身にぴったりした生き方ができると思 っていたんだ」

笠原メイはそれに答えます。

「ねじまき鳥さん(岡田亨のこと)、あなたが今言ったようなことは誰にもできないんじゃないかな。(中略)自分ではうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、そのうわべの下にはもとのあなたがちゃんといるし、何かあればそれが『こんにちは』って顔を出すのよ。あなたはよそで作られたものなのよ。そして自分を作り替えようってするあなたの「つもり」だって、それもやはりどこかよそで作られたものなの

「恋愛」って自分で作り上げていくものではない気がします。付き合って、お互いがお互いを尊重しているから必ずうまくいくというものでもないと思います。
自分が作ったコミットメントが、相手とつながっているとは限らない。逆に言えば、「恋愛」って、言葉とか態度とかではなく、自分や相手が意識していないような何かしらのコミットメントによってつながっているから成立するんじゃないかな、と思います。


「よそで作られた」自分と「よそで作られた」相手がつながっているんだから、そのつながりも「よそで(或いはあらかじめ)作られたもの」なのかもしれません。
だから「つきあう」とか「別れる」とかってどっちのせいでもないよう気がします。
O対Oでどっちの方が好きだとか、付き合ってる相手のどういうところが好きだとか、将来結婚するのかとか、そんなこと考えるのは好きじゃありません。
自分達の努力ではつながることができるとは限らないのに、それとは関係ない「よそで作られた」どこかでつながっているんだという事実をもっと大切に考えるべきなんじゃないかな、と。
逆にそれを祝福して大切にすれば、先のこととか将来のこととか、考えても無駄なんじゃないかな、と思うんじゃないかな。
・・・長いね。
なんかとりとめないけど、思うままに。