思想について。

松本清張『昭和史発掘』第6巻を8時間くらいかけて読んでいました。
二・二六事件へ向けての青年将校の動き、統制派と皇道派の対立、相沢事件公判など、様々な要素を、多くの資料をもとに詳細に追っていく作者の姿勢はすごいです。


さて、本を読んでいて考えたのが、『思想とは何なのか?』ということ。
昭和史を読んでいると、戦前における左翼と右翼の共通点が見えてきます。
それは、運動の根本に、日本の農村部の貧困にもかかわらず、あらゆることを他党批判のタネにし政権闘争にあけくれる政治家や、自社の利益のためには手段を選ばない財閥への批判があるということです(もちろん上記の言葉ですべての運動を語り尽くせはしないし、さらに、これは『批判側』からの視点であり、その正誤はここでは論じていません。)。


歴史的に観て、それらの運動は弾圧や制圧によって力を失い、成功はみません。掲げている論理も、現在から観ている、という点を割り引いても、矛盾点は多いし、たぶんに直情的なものであったりします。そして逆に論理に走った活動家は、時勢にあわせて運動をやめたりしています。


私は右翼でも左翼でもないし、ここでは思想の内容のことについて語りません。ただ、根本的な問題意識を一つにする人たちが、なぜ違う思想を掲げてのか、ということに関しては考えてみるべきことはあると思います。彼らが社会科学的に分析し、その結果、その思想にたどり着いた、という意見もあるでしょう。


しかし、左翼思想は労働者、右翼思想は軍隊関係者(隊付将校など)、という関係性を見るに、各々の社会分析以外の要素も考え得ます。


つまり『思想は自分の問題意識解消のために自分で考え、あるいは選んでいる』とも言えますが、もしかしたら『自分の環境や境遇によって、無意識に人間の考え出した思想にとらわれているのかも知れない』ということです。


もし後者であった場合、『自分で選んでいる』と思っている分だけ、『自分が思想にとらわれていること』には気づきません。そして何もかもを正当化し得てしまうようなことにもつながっていくのかも知れません。


上記の話はもしかしたら正しくないのかも知れません。しかし、戦前の歴史についての記述を読んでいると、その可能性は否定しきれないと思います。


小林秀雄の『思想嫌い』は有名ですが、彼の語るところは何なのか、そして人はどうしたら思想から『縛られず』にすむのか、それは大きな問題なのだろうな、と思った今日この頃です。ふむむ・・・わかりにくい文章だなぁ。