『成長するということ』について。

官庁訪問も終わり、1段落着いたので、この一年を振り返って思ったことを書いてみようと。
例によってわかりにくいこともあるかもなので、興味ない方はスルーしてください。


去年、官庁訪問終わって一番強く思ったことは、
『自分は何がしたかったのだろうか?』ということ。


第一志望の官庁で最終まで行きつつも、最後に切られてしまったのは、
『自分はそこで何がしたいのか?』という思いがなかったからなんじゃないかと思います。
自分でも官庁訪問中、ホントに自分はここに就職しても良いのか・・・という疑念から抜け出せずにいました。


自分にとって一番ショックだったのは、官庁に内々定をもらえなかったことじゃなくて、
『自分のやりたいと信じてきた思いが、実は、こんなにも変わりやすい曖昧なものだったんだ』
ということです。


ボクは自分ではいろんなことを考えて生きてきたと思うし、これからもそうありたいと思っているけど、
『自分のカッコたる信念』というものは、実はあまりアテにならないんじゃないか、ってね。


官庁訪問失敗して、新たに色々考えて、現在、内々定をいただいている官庁を目指し始めたんだけど、
そこでいつも自分に問い直していたのは『自分はホントにそれがやりたいの?』ということ。


そんなこと考えてるとキリがなくて、しかも自分ひとりで考えていてもどうしようもないことがあるので、
考えるツールを得るために国際政治を勉強し、平和のことを考えるためにNPOに顔を出し、
「平和が失われるってどういうことなのか」「人の生活を支えるってどういうことなのか」を
実感するために新潟中越地震のボランティアに一週間行ったり、といろいろしました。


結果的に言うと、それは素晴らしい日々でした。勉強も、NPOも、ボランティアも、自分にとって
とても貴重な体験になりました。


《新潟でボランティアしていたときのこと》
朝から夕方まで、現地の家の片付けとかやって、夜に食事を買いに行きます。
近所の店は壊れているので、営業しているコンビニまで1キロくらい歩いていくわけです。


基本的に肉体労働だし、移動もだいたい徒歩なので、疲れきった体で上を向きながらとぼとぼ
歩いていました。



もちろん11月の新潟の空は真っ暗で、星もきれいに見えます。
そのとき突然、『自分は人の平和を守る仕事がしたい』と、とても強く思いました。


どうにかして自分を動機付けしようとしていたわけでもないし、その時もボォっと歩いていただけなんだけど、
こみ上げてくる思いに何故か涙がとまらなくなりました。


不思議な体験でしたが、その後、自分は自分にとって正しい方向に進んでいるんだという思いを
心の底に持って日々を送ることができます。

ここでボクが言いたいことは、『自分はこれがしたいんだ』とか『自分は明日から変わるんだ!!』
とかいう決意ほどアテにならないものはない。
自分のしたいこととか、自分を変わるキッカケになるのは、自分で考えた方向性ではなく、
宙ぶらりんのツライ状況にも、何かに必死に食らい付き、その自分を肯定しながらもがんばり続ける中で
得ることのできる、静かな信念なのだろうということ。


ツライ状況から逃げて、自分で勝手に「変わるんだ!」とか「これを目指すんだ!」とか決めても、
結局それは自分を何処にも導いてはくれないのだということです。


成長するということは何か劇的に、輝かしく自分の外からやってくるものではなく、何かを一生懸命になす中で
自分には普段意識できない、心の底の方からひっそり語られる、静かな声に耳を澄ますことからもたらされる
ようなことなんじゃないかな。


自分にとって、いちばんわからないのは自分なんだと思います。そしてそれは一生わからないのだろう
とも思います。


でも、『自分』から眼をそらさず、それを人のせいにせず、追求していく限り、その人は成長し続ける
のだと思う今日この頃です。


みんなと仲良くしても、人となれ合わず、努力の上に、『自分にしかできないことがあるんだ!』
と胸をはって言える人間でいたい。


それが、ボクの考える『和而不同』の意味です。


ふむ、あいかわらず長くて読みにくい日記ですね・・・
では、また明日。