『原爆』の日に思うこと。

8/6の広島に続いて、今日8/9は長崎に原爆が投下され、多くの市民の命が奪われた日です。
世界から核兵器がなくなり、戦争がなくなり、平和が訪れれば、どんなに良いことか知れないと心から思います。


しかし、核兵器を世界からなくすのはとても困難なことです。なぜなら、冷戦が終わっても、未だなお、核兵器の重要性は軍事力の中で確固たる現実性を持っている(あるいは持っているように思われる)からです。


日本は世界で唯一の被爆国です。しかし、ボクはその現実から反省とか許容とか憎しみとか、それでは表せないものを感じます。
原爆投下後の悲惨な街・人々の状況・・・そこでは何よりも
『なんで人間がこのようにして死ななければならないんだろう?』という圧倒的な問題の前に、何も言うことを失ってしまいます。


世界から戦争がなくなるか、という問いに関して、ボクはなんとも言えません。戦争とは国家対国家だけでなく、個人対個人のレベルから、集団、民族のレベルまで、絶えることはありません。


しかし、そこに(争いが望ましくないとしても)最低限共通すべきは
『どんな争いも、《人間として》何かを守るためにするのだ』
ということ。人間としての尊厳を失った行動は、将来、人類の荷物として大きくのしかかることになるでしょう。


ホロコースト民族浄化はなぜ起こったのか。合理的な判断をすべきものとしての人間が、なぜそのようなことを行ったのか、そして、そこには理解可能性があるのか・・・


原爆の悲惨さは語り継がれるべきだと思います。
そして、いまのボクにはその後に何を『反省すべき』とか『許容すべき』とかいうことはまだはっきりしません。
それよりも、『人類は常に平和を求め、合理的な判断をしてきたわけではない』ということが意味する危うさを自分の中にしっかり持っていこうと思います。


ほんとうの危険は、みんながそれに気づかなくなったときに起こるように思うから。