村上春樹 『東京奇譚集』(前も画像のっけたな・・・)
さて、今日は軽く本の話。
村上春樹の『東京奇譚集』。
これから書くことはあくまでボク個人の意見であって、勝手な考えなんで、そのへんは割り引いて読んでください。
村上春樹は昔から哲学の構図に乗っけて語られることが多いと思います(本人も作中に哲学書を出したりしてるし)。
『風の歌を聴け』から始まる作品の『僕』と『鼠』の二面性のことだとか、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』において同時進行で語られる二つの世界のこと等々(ホントに等々)。
そして主人公の価値観、世界、他者との関わり方・・・などはテクスト分析していろんなことにこじつけてみるにはもってこいなんだろうと思います。
村上春樹の作風が変わってきたというのはよく言われることだし、クールな文体、クールな主人公が好きで作品を読んでいた人には『アンダーグラウンド』のようなドキュメンタリー作品や、『神の子どもたちはみな踊る』の不思議さ、『海辺のカフカ』のように宿命や遺伝、環境を意識した作品は読みにくいのかも、と思ったりします。
実際に友達でも『最近のハルキはよくわからないから読まない』って言ってるやつがいます。
人には好みがあるし、読みかたも様々だけど、私はあまり主人公のクールさや洗練されたスタイルを求めているのでもないし、哲学的あるいは文学的に『ここでの「僕」は世界との関わり方において〜であり、作中に出てくる〜と〜は対立概念として〜と〜の象徴として描かれている・・・』とかいう読み方も好きじゃありません。
私が村上春樹を読み続けていて、作品をいいと思うのは、そこに自分に対する『示唆』があり、『救い』があるからです。ストーリー展開や、人称の使い分けなどの巧さ(って言ってよいのかな?)はもちろん好きですが、それはまぁちょっと違う話ですね。
さて、『東京奇譚集』、おもしろかったです。
『アフターダーク』を読んだときから、作者の『救い』への姿勢が変わったのかな、って思ったけど、今回もそう思いました。初期の作品は『喪失感』っていう言葉で語られることが多いけど、それでもやっぱり村上春樹(っていうか文学)の根本には『救い』があると思います。
そして私は最近の村上春樹の作品に、まだ見ぬ何者かへの『救い』への意識を強く感じます。
中には「あんなんもの救いでもなんでもないし、地に足が着いてない。関わり方を明確にしろ!」
っていう人もいると思うけど、ボクはそうは思いません。ある程度読者の力量が要求さてれるんじゃないかな、と思ったりはするけど。
「救い」というか「思い」というか・・・まぁよく読んだら(普通に読んでも)昔からあるんだけど、確実に強く前面に出てきてるなってね。
今日はこんなところで。『アフターダーク』でも読み返すかな。