『「事件」ではないか・・・』

poriporiguchi2005-11-26

ボクはビールが好きで、春や夏はほとんどと言っていいほどビールしか飲みませんが、秋も終わりに近づき、寒さが増してくると、自然と少しずつ日本酒を飲むようになります。


なんでだろうと考えてみたら、鍋やらおでんやら、日本酒に合う食べ物がおいしくなってくるからなんでしょうね。わが家はほぼ毎日鍋だし、すでに今冬初おでんも『お多幸』でおいしくいただきましたし。


さて、今日は大岡昇平『事件』を読了しました。
書かれたのが1961-1962と結構前だし、設定が古いという感は否めないけど、奇を衒わず、たんたんと前に進めていく文体、そして内容の圧倒的なリアリティーは圧巻です。一般的な推理小説・ミステリーみたいに謎解きが中心なのではなく、『裁判は真実に到達できるのか?』と言う問題を扱った小説であり、ふだん華々しく描かれる裁判の実態に反して、その問題点を考えさせられます。


関係ないけど、宮部みゆきにもねぇ(くどいかも)・・・別に宮部みゆきが嫌いなわけではありません・・・ただ、ふむむ・・・まぁ宮部みゆきの話はやめよう。とにかく『事件』の話です。


この小説に登場する弁護士、菊地大三郎が判決後に裁判を振り返って考えるシーンがあります。裁判の限界を見つめた、彼のせりふです。


『・・・検事の論告も、彼の弁論も、要するに言説にすぎない。判決だけが犯行と共に「事件」である。殊に最近のように、地裁、高裁、最高裁と、さまざまな裁判所の人格、またその時々の身体的精神的状況によって影響されるとすれば、「事件」となる。
制定法はそれが制定されている故に正当である、という同意反復的観念は、未だに払拭されていない。しかしその正当性が、一人の人間による決定という可変的要素と結びついているとすれば・・・いや、全ての制度による決定は「事件」ではないか、と論理が進展したとき、菊池は自分の頭がおかしくなったのではないか、と思った・・・』


『しかしその正当性が、一人の人間による決定という可変的要素と結びついているとすれば・・・いや、全ての制度による決定は「事件」ではないか』


というくだりはすごいですよね。簡単なように思えて、こんな文章は中々書けません。専門家ではなく(ご存じと思いますが、大岡昇平『俘虜記』『レイテ戦記』などで著名な作家です。)、素人としての視点で書くところにこの本のおもしろいところがあると思います。


裁判は「真実」に到達できず、それでもなお「判決」が被告の人生を左右することは、それ自体が偶発的な「事件」であり、その解決困難な問題の前に何をもって正当性を言うのか。そして、裁判は何を目指し、どうあるべきか・・・というふか〜いことを言ってるわけで、これはどんな組織に属していても常に反省として持っていないといけないことです、きっと。


そんな難しい本ではないので、エンターテイメントとしても楽しめます。なにげに日本推理作家協会賞とか受賞しちゃったりしてます。なので興味がある方はゼヒゼヒ。


風呂場で紛失した『昭和史発掘』第8巻が発見されたので、しばらくはまた松本清張さんとお付き合いすることになりそうです。卒論は・・・