『子どもを守る』には?
近日、少女殺害事件が続いています。
今日、小学二年生の少女殺害事件に関して、18歳の少年が逮捕されました。
まだその少年が犯人と決まったわけではありませんが、その事例、あるいはその他のことをとっても、考えなければならない問題がある思います。
例えば栃木県で少女が殺害された事件、小学1年生の学級が早く終わり、学校は大人の付き添いをつけず、1年生を早く帰しました。姉が同じ学校に通っているので、帰りを待たせて一緒に帰らせてもよかったはずです。しかし、それはなされませんでした。
1年生の少女は友達と一緒に人があまり通らない2キロもの道を帰る途中、何者かによって命を奪われました・・・
そこで学校は、校長は、教師は、なぜ、小学1年生にそのような行動を許したのでしょうか。
確かに地方での出来事、近所はみなしりあいで、その地方を知る教師にはそのような危険に思いが至らなかったのかも知れません。
しかし、少女にたいする卑劣な犯罪が起きている中、それは
『そこには思いが至りませんでした』
ですんでしまうことなのか?と思います。
近年、政治家、公務員、医師、など、多くの人の生活に関わる仕事をしている人々に対してはきちんとした責任が求められます。場合によっては、自分の立場を擲ってでも正しい道を選択しなければならない、と言うのが、彼らに対してみんなが思うところです。
場合によっては学校の教師も多くの子どもの命をあずかります。しかし、この事件でマスコミは学校、教師に対して厳しい責任追及を行っていません。きっとこれからもどこかの学校の『そこには思いが至りませんでした』という態度によって、子どもの命が失われてしまうでしょう。
次に18歳の少年が逮捕された事件。
日本には『少年法』という刑法の特別法があり、20歳未満の人間に対してはその可塑性(発達可能性)を理由に、成人に比べて寛大な処置がなされています。それは必要なことなのだとも思います。しかし、それによって自分の子どもの命を奪われても、何も語ることが出来ない家族がいます。裁判は万能ではないし、真実に到達することは出来ないかも知れません。
しかし、民主主義国家の制度として、人は少年問題やそのあり方に意見を述べ、関わっていく権利があると思います。それが現在、日本には不充分です。
『正しい責任追及のあり方』、そして、『子どもにたいする考え方(少年観)』、それを考えないところに『子どもを守る』という、世の中に氾濫しているところの言葉は、きっと意味を持ちません。
画像:栃木県、少女殺害事件に関して、少女が足取りをたった現場