社会って何だろう?

秋も近づき、夜、駅から寮への道を歩きながら虫の声に耳を傾けたりしています。
そろそろビールもほどほどに、焼酎を飲む季節になってきましたね。


それはそうと、この2、3日はボクにとっていろいろ考えるところの多い日々でした。
昨日はアメリカで9.11テロがおきた日でした。
マスコミによると、今年、アメリカでは『9.11疲れ』とも言うべき現象があったそうです。
9.11を毎年大げさに語るよりも、それにこだわらず、前に進んでいこうという声が多く聞こえ、ある調査によると9.11のイベントは大げさであるといった意見さえあったといいます。
日本のマスコミはこれに対し『記憶を薄れさせてはならない』みたいな言説が目立ったけど、ほんとにそうなのかな、と思います。


だってそれは9.11を目の当たりにして心の底から苦しんだアメリカの人々が選んでいることであって、それを自分が体験したかのように語るべきではないと思うからです。その結果、アメリカが将来誤った道を進むことになろうとも、それは誰にも止められないし、それを体験していない人が安易に語ることはできない問題だと思います。


今日、安倍総理が辞意を表明しました。これに関して無責任であるという意見もありますが、ここではふれません。
でもボクが思うのは、これは政治家が勝手にやったことではなくて、日本という国が(そういうものがあるとすれば)選んだことでもあるということです。


今日おこったことは、何か今の社会を象徴しているようにも思います。
この社会のシステムは『政治家はえらいんだからしっかりしないといけないんだ』という考え方を否定してきました。政治家も一人の人間であって、みんな同じであるべきだ、と言ってきました。国っていったいなんですか、他人っていったいなんですか、自分が楽しく暮らせればいいじゃないですか、と言ってきました。
それも一つの価値観ではあります。


しかし、今日おこったことは、そういう考え方の行き着く先をも示しています。
『政治家だからって特別なんですか、いろんな職業のひとつなんじゃないんですか、みんな自分の批判をするからイヤになりました、やめます』


考えてください。これに対して『責任感』と言う観点を除いてどんな批判ができるのでしょう。
これは言い方を変えれば、みんなが選んだ国のカタチでもあるのです。


今日おこったことは、政治の世界にとどまらず、この社会に大きな陰を落とすことになるでしょう。『他の人のために働くなんてばからしいや、どうせ何も変わらないし』って思う人も増えるでしょう。退廃的な考え方が社会を覆うことになるかもしれません。


でも、繰り返して言うならば、これはみんなが望んでいることの裏返しでもあったのかもしれません。
だからこそ、それによっておこる悪影響を被るのは、他ならない『みんな』なのでしょう。


最近よく思います。日本人は何か勘違いをしているんじゃないかなって。
どんなときにも人間は突然不幸になりうるのです。そして人間はそれを避けることすらできないことがあるのです。
知らないうちに多くの人がそのような社会を選んでいるこの社会においては、なんでもありであるように思える反面、どこまでも損なわれてしまうことも、とても容易なことなんです。