潜んでいるもの

poriporiguchi2006-09-17

今週はけっこう忙しく、精神的にも疲れたので、金曜仕事が終わって帰るときは何か快哉を叫びたくなるよな開放感がありました。次の日のことを考えずに1人酒を飲み、読書をすることがこんなにも幸せなことだなんて大学の時は考えなかったな。
まぁ毎日そんな生活送ってたわけだから当たり前なんだけどね、うん。


そんなわけで、金曜の深夜、キリンの『秋味』を飲み、唐揚げを食べながら、村上春樹の『アフターダーク』の再読を始める。文体もけっこう変わってるし、展開も不思議だし、正直に言って読みやすいとは言えない本だから、一回目に読んだときにはあんまりピンとこないところがあったけど、改めて読んでみると、『ふむむ、ほほぉ』って感じで(どんな感じだ)、なかなか良い本だと思いました。


水曜か木曜か忘れたけど、オウム真理教の麻原の死刑が確定しましたよね。確かに死刑に値するような犯罪を起こしたわけだし、当たり前のことなんだろうと思います。それが司法という分野での1つの終着点なのでしょう。


でもテレビを見ながら『これにいったいどんな意味があるんだろう』と考える自分もいました。死刑制度に反対しているわけではないし、何に異議を唱えるわけでもないんだけど、『結局何も解決していないんじゃないか』って強く思います。


地下鉄サリン事件には個人的に強い興味を持ってきたし、いろんな過程についても注目し続けてきたつもりです。麻原が死刑になるときには、それなりの感情がわき起こるものだと思っていました。


しかし、実際には何も感じませんでした。司法という領域において、国家が1人の人間の命を奪うわけだから、それはとても重大なことであるのはわかるけど、一方で、彼が犯したこと、その不可解な『悪』はどのようにして生み出され、実行され、どこに行ってしまったのかということについては何一つわかってないんじゃないのかな。


そんなふうに考えていくうちに、もしかしたら『悪』っていうのは決して属人的なことだけでは語り得ないのではないのかな、と思いました。実は社会の中にある色々な仕組みの中に潜んでいるものなのではないんじゃないか、と。言い換えれば、みんなが知らないうちに社会の中に仕組まれたものなのではないか、とね。


それが家族の問題、差別の問題、いろんなレベルのでコンフリクトなどの中で、いろんな経路を通って、ある日ひょっこりと顔を出す。『悪』は常にその機会をうかがっているように思えるんです。


社会の色んな枠組みは、多くの人を幸せにしていることも確かだけど、同時に、必然的に『悪』を内包しているのだろうと思います。しっかりと仕組まれた悪に対して人間はとても無力だろうし、これからもそれによって多くの人が損なわれていくんだろうけど、やはりそれをしっかり見つめていかないといけないんですね。


たとえそれが見るに堪えないような悲しいことであったとしても、思わず目をそむけたくなるような悲惨なことであっても。だってそれは他ならない人間が作り出したものであり、自分たちが属している社会が生み出しているものなのだから。


アフターダーク』読みながら、そんなこと考えてました。
悪や暴力は、社会の中にひっそりと潜んでいて、何かをきっかけに顔をのぞかせます。
それは1人の人間が死刑になったところで解決する問題ではない。これからいくらでも起こりうることなんです。