『パレード旅団』

poriporiguchi2006-09-24

昨日は久しぶりに友達と飲んで、自分が思っていたより酔っていたみたいです。
そんなわけで、起きたら素晴らしい秋の晴れた空・・・午後1時半・・・


またか・・・とか思いながら、ぼんやりテレビを見て、昨日買ってきたサンドイッチを食べ、牛乳を飲む。なんか少し健康になった気分。


レーニングの格好に着替えて、駒沢公園で走る。とてもよく晴れていたからか、親子づれやらカップルやらが大勢いました。みんなとても幸せそうだし、そういうのってとってもいいですよね。


さて、今日、注文していたサードステージの『パレード旅団』が届きました。
三劇でやったときからみたいと思っていたんだけど、その時は、オリジナルを見て影響されてしまいうのがイヤで見てなくて、以降そのままになってたんだよね。


部屋を暗くして、窓を開けて、夜の静かな風を感じながら見ました。
とてもよかった。10年以上の公演を見たわけだけど、今見ても、とても新鮮だし、作品の持つものはある意味で永遠に現代的なものだと思うし。


舞台は、家族といじめられっ子の2つの世界が入れ替わりながら展開されていきます。
とても重い内容を、ジョークを交えながらテンポ良く疾走感を保ちつつ運んでいく演出は圧巻です。


ディスコミュニケーションが生み出すもの、そしてそれを超えていくことによって登場人物が(あるいは集団そのものが)変わっていく。「家族」と「いじめられっ子」という、一面では反対に位置するような集団を、コミュニケーションの過程を通じて一つのところにもっていくことで、新しい何かを表現する。


きっと、これは希望を語る作品ではないんでしょうね。いじめられっ子はコミュニケーションを通じて夢を語り、一つにまとまっていくけど、やってることはメチャクチャだし、その言い分の中にはどう考えても納得できないことがある。


家族もコミュニケーションによってお互いの立場を理解していくわけだけど、だからといって何かが解決したわけではない。


そして「いじめられっ子」も「家族」もほぼ100%生き残れないような状況におかれる。
コミュニケーションを通じて他者を理解をしていくはずの役者の表情は、決して喜びや希望に満ちあふれたものではない。むしろ、段々ニュートラルともいえるものになっていく。


そして最後は、跳躍・・・


コミュニケーションについての作品であることは、鴻上自身が言っていることだけど、さらに、コミュニケーションというものによって、人が無条件に幸福になったり、希望に満ちあふれたりするわけではない、ということ。そこには何かを受け入れたニュートラルな状況が待っているだけなのかもしれないということ。そんな風にボクには思えました。


そして最後の跳躍。何の保証もない中で、むしろ待っているものは死でしかないという中での、希望でもなく諦めでもない、ただ前向きに高く高く跳躍。暗転し、まぶたのうらに残るシルエット。


ぜひ劇場でみたいなぁ。ほんとに。
また東京で公演してほしいなぁ。ねぇ、鴻上さん。お願いします。そしてボクにチケットをください。


これを見て公演を見に行ったり、DVDを買ったりする人がいるとは思えないし、別にそこまで演劇に詳しいわけでもないけど、演劇のもつチカラを思うと、演劇というものが、もっともっと世の中でメジャーになってもいいんじゃないかな、って思います。ねぇ、みなさん。


『パレード旅団』を東京でやってください。そしてチケットください。それがボクの希望。