『千と千尋の神隠し』

poriporiguchi2006-10-01

みなさんこんばんは。
日記を書くのも久しぶりな気がします。
実際はそんなでもないけど、今週は何かと忙しかったので、時間が過ぎていく速度の感覚にいまいち自信が持てない感じ。ってなんとなくわかりますかね。


だから、自分の日記とかに眼をとおすと、「あ、ここってこの時に行ったんだっけ」とか「こいつと飲んだのって、このときだったんだ」とか思ったりするわけです。もしかしたら、仕事って人をそういう風にしてしまうのかもしれないね。でもずっとそうだとしたら、やっぱり何かがおかしい(というかゼッタイにおかしい!)と思うから、社会人1年目だからという風に考えることにします。
もし2年目もそうだったら(きっとそうだろうから)、3年目に期待・・・


もし5年たって変わらなかったら・・・少し考えてみよう。


さて、今日、『千と千尋の神隠し』のDVDを見ました。
昨日、飲んで、酔っぱらってTUTAYAに寄って、CDを物色していたんだけど、なんかレンタルするため列に並んでいたら、「あ〜、千と千尋の神隠しを見よう」って思ったわけです。だから特にたいそうな理由があるわけではありません。


レジのお兄ちゃんも、酔っぱらいが『千と千尋の神隠し』とエリック・クラプトンの『アンプラグト』を一緒に借りようとしてるのを目の当たりにして何を考えたんだろうね。きっと「なんだコイツは」って思ったんじゃないかな。


千と千尋の神隠し』を見るのは、たぶん4回目くらいだけど、やっぱりおもしろかったです。何かしらの直接的なメッセージがあるわけではないし、特に劇的な結末が待ってるわけでもないから、あんまり好きじゃないという人もいるんだろうけど、逆に言えば、そこがこの映画のいいところなんだと思います。


千尋っていうどこにでもいそうな女の子(っていうけど、よく考えれば、こんなにしっかりしていて洗練されている子は中々いないですよね)が不思議な世界に迷い込んで、両親やハクのために前向きに必死にがんばるっていくわけで、ある意味では「少女がこの体験をとおして成長していく物語だ」って言えるんだろうけど、たぶんそんな通り一遍な話じゃないんだろうと。


金銭の圧倒的な互換性を基本にして、物の名前を奪うことで、湯屋を支配していく湯婆。はっきりとは描かれていないけど、それとは違う原則で何かと契約を結んでいるであろう銭婆。たぶん湯婆と銭婆はある意味では相容れない原則の下に生きていて、でも双子だったりする。


『顔なし』とかも「なんじゃこりゃ」って思って見てる分にはいいんだろうけど、金銭が支配する湯屋の中で、言葉を持たず、何か(金銭とか薬湯の札とか)を介在させることでしかコミュニケーションをとることができないものを象徴してるんじゃないかって思うんです。


だからこそ、「寂しい」とか言いながらも物で千(千尋)をつって、結局は代償とかを抜きにしたコミュニケーションをとることができない。だぶん何処にも居場所がなくルーツをもたず、だから千(千尋)に「どこからきたの」とか言われると過剰に反応するんだと思うんです。「顔なし」はそういう意味で、固有の何かとして顔を持たないんですね。


たぶん、現実にも、そこら辺に『顔なし』っているんじゃないかな。
そんで同じように言葉を持たず、他の何かを介在させてコミュニケーションをとろうとしてるんじゃないかな。


・・・とまぁ、いろいろ書きたいことはあるんだけど、これくらいにしておきます。だってきりがないから。湯屋から見える街って何なのかとか、だれが住んでいるのか、とか、いろいろあるからね。


不思議な世界を現代社会に対するメタファーとして描いているのは確かだと思うけど、だからと言って「高度資本主義社会が」とか「これが現代の日本社会へ警鐘を鳴らす作品である」って感じでみるのもねぇ・・・って思います。あくまでリラックスして、感じるものを感じてってスタンスがいいと思うけどね。


結局、ボクがこの映画がいいと思うのは、千尋がこんなにいろんなことを体験するわけだけど、きっと次の日に「ねぇねぇ、昨日実はこんなことがあったんだよ」と人に言ったりしないんだろうな、って思うからです。豚にされて食べられそうな羽目になった両親も、別に何も変わらず相変わらずアウディに乗り、「田舎ねぇ」とか言ってるんだろうけど、それとは別のとこで千尋がささやかに変わっているんだということ。


きっとそれは「新しい学校なんか行きたくないもん」って思ってたのが「不安だけど、行ってみようかな」って思うくらいのことなんだろうと思います。
今の社会はいろんな劇的なことを取り上げて、それが唯一の「悲しみ」であるように言う風潮があるように思うけど、ほんとは一日一日にいろんな出会いや別れがあって、そのたびにそれを受け入れ、人は前に進んでいっているんでしょうね。


そして、ぜにぃば達が作った髪留めがそっと千尋の背中を押していってくれるわけです。
そういうささやかな祝福を明るく、ユーモアと少しの寂しさと、そしてどこかしら突き抜けた視点で描いているところが、ボクは好きです。



・・・こんなこと昔もブログで書いた気がするなぁ・・・まぁ、いっか。