死んだらいけない

こんばんわ。
めっきり寒くなってきて、毎日布団からでるのがつらくなってきています。でも冬はボクの好きな季節なので、なんか少しうれしかったりもします。
ボクがなぜ冬が好きかというと、とても澄んだ空気の中、マフラーを鼻の下まで上げて、自分のあたたかい息を感じながら、静かな街を歩くのが好きだからです。
でも実は今、マフラーを持ってないので、新しいマフラーを買いたいと思っている今日この頃。


いじめによる自殺がふえているという報道が流れています。
ボクはいじめについて色々考えた時期があって、最近もいろいろ考えることが多くなってきています。
多くの子どもたちが、いじめという暴力のもとに命を絶ってしまうのはとても悲しいことだし、そして人が人の命を奪うということが日常の中に埋もれているということの悲惨さを今更のように深く感じるわけだけど、それに克服するような答えを出すことはとても困難なことであるということもまた感じざるを得ません。
それは、いじめや差別など、いわれなく人を損ない傷つける行為を人間はずっと繰り返してきたたわけだし、おそらくそれは論理では解決できない、もっと人の深いところに存在するものにかかわるものだろうから。


いじめの問題に関しては、その悲惨さを語ることしかできないし、前向きな何かを表現することもできません。それはほんとに悲しいことです。


でもボクは思うんだけど、なにがあってもやはり死んではいけないんじゃないかな。いじめの責任がどこにあるのかとか、どうすればいじめがなくなるのについて、まったくノーアイデアだけど、やっぱり、なんとか生きていくことでしか自分が自分であることができないのだから。
人がどこかで受けとるべき愛の暖かさを、いつか感じることができると信じられるような何かがあってほしい。どこかで誰かが見ていてくれるし、どこかにきっと自分の場所があるはずと信じられる何かが。


だから、子どもに「死んじゃいけない」っていう校長先生も死んじゃいけないんです。
学校が教師、親、子ども、多くの人間が関わるとても機微な場所である中で、組織の管理職としてほんとにたいへんだろうし、履修の問題とかいじめの問題とか一人の人間がどうしよもないことの責任を引き受けることはとてもつらいことだろうけど、でもやっぱり、死んじゃいけないんです。


自分の命を絶つことは、何かを諦めてしまうことなんだと思います。
どこにもいけないような状況で、人から愛されることを諦めざるを得ない子どもたちに、声もなく苦しんでいる子どもたちに、何かが言えるとしたら、「この世の中はどうしようもないんだよ」ってことではなくて、「この世の中は悲しくてつらいことだらけかもしれないけど、それでも素晴らしいことがきっとあるんだよ」ってことなんだろうって。


だから、死んじゃいけないんです、やっぱり・・・