『テヘランでロリータを読む』

poriporiguchi2006-11-23

今日、『テヘランでロリータを読む』を読了。
毎日1時間ずつコツコツと読書するのもいいですね。もちろんもっと時間があるほうがいいんだけどね。
断っておくけど、この本はテヘランにいるロリコンの話ではありません・・・というのはさておいて・・・冒頭


『1995年の秋、最後の大学を辞めた私は、かねてからの夢を実現することにした。教え子の中から、もっとも優秀で勉強熱心な七人を選び、毎週木曜の朝、私の家で文学について話し合わないかと誘った・・・』


宗教の名の下に、多くの自由を制限されている中、毎週木曜日に開かれる研究会。男女が伴にいることすら糾弾されるような世相の中、研究会は女性のみをメンバーとして行われる。


いたる所にいわれのない様々な暴力があふれ、女性だというだけで差別を受け、西欧的『堕落』という理由で時に人は処刑される当時のイラン。研究会の参加者は、それぞれの悩みや苦しみを持って木曜、作者の家に集まり、様々な本について議論をしたり、また、自分がおかれている状況について、自分が抱えているものについて話したりする。


この本の魅力は、本の持つ力を信じていながらも、それが人の抱えている苦しみや悲しみをどこかにやってしまうようなものでは決してないということを表しているんだろな、って思えるところ。


圧制下のテヘランと比べることはできないけど、自由だと思われている日本でも、様々なかたちの苦しみを持っている人たちはたくさんいるんだと思います。国とか、会社とか、学校とか、家庭とか、共同体の中には、よくみると何ともできないような悲惨さが潜んでいるんだと思います。それは例えば、差別であったり、いじめであったり、虐待であったり・・・


本はその状況を瞬く間に解決してくれたりはしないんです、きっと。それでも人が本を読み続けるのは、それがその人にとって必要なものだから。逆に言えば、人は本というフィクションの中に身を沈め、現実を否定するために本を読むのではない。フィクションの中を通りぬけることで、現実に世界を生きていくための何らかの力をえることができる。その力を信じて、人は本をよむんじゃないかな、って。


この本の最後の文章はとてもいいな、って思います。ここに書きたいけど、これからこの本を読む人のためにやめておきますが。


関係ないけど、女性が集まったときの会話ってなんか凄味を感じます。テヘランの圧制下でも、日本の池袋のファミレスでも・・・う〜む、何か同じようなものを感じてしまったよ、ぶるぶる。