なるべく小さな幸せと

poriporiguchi2007-04-15

こんばんは。
4月も中旬に入って暖かくなってきましたね。桜の花も散ってきてほとんどが葉桜です。
勤めている会社には桜の木がたくさんあるんだけど、葉桜っていいものです。もちろん満開の桜もいいものだけど、きれいな薄緑の葉をつけた桜をみると、少しずつ夏に向かっている気がして元気になります。


今週末は特に予定も入ってなかったので、ひさしぶりに駒沢公園を走ってきました。
1ヶ月くらい走っていなかったし、土日忙しかったりして、不健康な食生活を送ってきたせいか、けっこうつらかったです・・・
でもなんとか12キロくらい走りました。暖かくなったからか、駒沢公園は家族連れやカップルでいっぱいでした。
楽しそうに意味不明な行動をとってる小さい子どもを見ていると、こっちまでなんだか楽しい気持ちになるものですが(実は子ども好きなんです、意外かもしれないけど)、いちゃいちゃしているカップルなんか見ていると、普通の顔して踏んづけて走ってやろうかと思ってしまいます(実は公園とかでいちゃいちゃしているカップルが嫌いなんです、意外でも何でもないと思いますが)。


そんなこんなで健康な体を少し取り戻し、夜は例によって酒を飲みながら読書。
今日、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読了。人間そのものを「軽さと重さ」で語っていくやり方は、最初は少し鼻につく部分もあったけど(少し理屈っぽいから)、トマーシュとテレザの愛のあり方や、その他の人々を通じて様々なことを表現しているこの本は、おもしろかったです。
チェコで生活し、「プラハの春」など、大きな歴史的転換点の場に居合わせたクンデラはその中で様々なやりきれないことを経験したのだろうし、それは本の中でも人間や、社会や、国家というものがいったい何なのか、という深い問いを通じて感じることができます。それは哲学的とも言えるのかもしれないけど、そういった問いを通じないことには過去の自分の存在や、明日からの自分のあり方、さらには現在の自分がいる場所を確認できないという必死な姿勢としてひしひしと伝わってきます。


詳しい内容を書くのは無粋だと思うので、これ以上のことは書かないけど、自分たちをとりまいている「俗なもの」がどれだけたくさんのものを台無しにしてしまうかということ。そしてそれに対するクンデラの強い嫌悪は心に残りました。


昨日、TSUTAYAブルーハーツのCDを借りてきて、今、久しぶりに聞いているんだけど、いいですよね。
『情熱の薔薇』の


『なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ
 なるべくいっぱい集めよう そんな気持ち分かるでしょう』


っていう歌詞が昔からどうしようもなく好きです。
いいですよね。