『深い河』

poriporiguchi2007-08-27

こんばんは。
最近、少しずつ涼しくなってきましたね。
秋が近づいてきて過ごしやすくはなるけれど、夏が終わってしまうのは寂しいものです。
そういえば、ビールを飲みたいっていう気持ちも少し減ってきたかもしれない。


夏休みが終わって、最初の週末は飲み続きでした。
日曜日には久しぶりに(そうでもないかもな)大学のクラスの飲みました。
なんだかんだでみんな出会ってから6年以上経つのに仲いいんだよね。
これってきっとけっこう珍しいことだと思う。
いつものようにノープレッシャーで話したいことを話して楽しく帰ってきました。
みんなが進んでる道がバラバラで、でもみんな元気にがんばってるのはうれしいことだよね。


話は変わるけど、ちょっとしたきっかけがあって、遠藤周作の『深い河』を読み直しました。
実はボクは遠藤周作の作品が結構好きで、高校生の時とかよく読んだものです。きっと兄の影響でしょう。


遠藤周作といえばやはりキリスト教を扱った文学で知られています。
自分自身の中にあるキリストを追い続けて、独自の道を歩んだ作家であり、その特殊性故に魅力があるのだと思います。


『沈黙』を始めとする代表作ももちろんおもしろいのだけど、ボクは『深い河』が好きです。
宗教というもの、神というもの、愛というものを追い続けた遠藤周作が、最後にこの作品を書いたことは、ほんとに素晴らしいと思うし、書いた本人も作家人生を全うしたと思えたのではないかな、と思うのです。この作品には作者の体力の衰えや、死の気配、切迫しつつも突き抜けたような精神状態をまざまざと見ることができます。上手い下手を超えたすごみを感じます。かつて安部公房の『カンガルー・ノート』を読んだときにもそれを感じました。


それがいいことか悪いことかよくわからないし、『そんなことを抜きにして、もっと冷静に評価すべきだ』って人もいるかもしれませんが、作家というのは、やはり最終的には自分の死を前にして何を書くかということから逃れられないし、そこで素晴らしいものを書いてこそ、素晴らしい作家であるとボクは考えています。だからといって作家は早く死んだ方がいいと思っているわけではありません。基本的に身体が健康でないといい作品は書けないとは思っています。


ボクは『深い河』で大津がキリストを『あの人』と言い、『たまねぎ』に喩えるところが、遠藤周作の集大成であるような気がします。
さて、また明日からも仕事。がんばっていきましょう。