自分のなかにある何か。

こんばんは。
三連休のはじめの土曜日、サティのジムノペディを聴きながら一人でワインを飲んでいます。
・・・って少しかっこよく聞こえるかもしれないけど、ここは築40年、四畳半の畳敷きの部屋、全然かっこよくありません。
だいたい、かっこいいとか言われたことは殆どありません。これは部屋の問題ではなくて自分の問題だけど。


最近、いろんな人たちを観察しています。昔は常にいろんなことに腹を立てていたので、ほかの人のことをじっくり見るなんてことはできなかったけど、就職して少し変わったせいか、昔は『くだらねえな』とかいって切り捨てていたものを、『ちょっと待ってみよう』って感じでみることができます。つい数年前の自分がいかに愚かであったか思い知らされるときでもあります。たぶん今でも相当愚かであると思うけれど。


いろんな人たちを見て、いろんな人たちの話を聞いて思うのは、当たり前なんだけど、ほんとにたくさんの人がそれぞれの物語を持っていて、しかも意外とそれに気づかずに生きているんだな、ってことです。それは自分も含めてなのかもしれません。


休日の街ではよくカップルを見ます。とても仲良くしているカップルもいるし、ケンカをしたのか、お互いに不機嫌そうなカップルもいます。
大学時代から、いろんな人の恋愛を見てきて、あるいは自分の経験を振り返ってみて、ぼんやりと恋愛っていったい何なんだろう、って考えてきました。
それは簡単に言うと『なんで付き合っているのか』っていうことになるのかもしれません。だって一人の人と付き合うってことは、結構な時間や金銭や、何よりも自由を制約することでもあるからです。
自分の好きなものを食べられなかったり、自分の好きな洋服を買うことができなかったり、自分がしたいことができなかったりしたりしますよね。


じゃあ、何で付き合うのか。ボクは、その人が無意識に他者であるはずの彼氏や彼女と、理由を超えてつながっているという感じを持っているからなんじゃないかな、と思ってきました。つながり得ない他者と奇跡的につながっているということ、恋愛というものが成り立つとしたらそういう理由からしかないんじゃないかな、と思っていたわけです。


でもその考えには同時にどこかで違和感を感じていました。もし恋愛が『つながり得ない他者との無意識な、奇跡的なつながりを求めること』であるとしたら、世の中にあるカップルはそんなに苦しんだりしないはずです。
もう相手を信じられない、付き合っていけない、というとき『やっぱりつながれなかったんだよね、しょうがないか。他の人間だからさ』ってなるんじゃないかな、って。


でも、いろいろ考えてみるとそんな風ではないですよね。ボクの知ってる限りではそんな別れを経験している人ってあんまりいない。仮にそう言ってることがあっても、何だかウソをついているように感じます。


じゃあ、なんなんだろう、ってぼんやりと考えてきました。
それで思ったのは(っていうかつい3、4日前からだけど)、恋愛は『つながり得ない他者との無意識な、奇跡的なつながり』ではなくて、『自分のなかに無意識にある何かを、他者に求めること』なんじゃないかな、っていうことです。


初めて見るのだけどなぜか懐かしい風景、何かによって突然現れてくる新しい自分、恋人ってもしかしたら、それと同じようなものなのかもしれないって思うわけです。恋人への思いっていうのは無意識の自分への思いなんじゃないかなって。だからこそ理屈では言い表せない思いとなるのではないかって思うのです。


でもね、そう考えると『それって結局他者(彼氏や彼女)ではなくて自分の問題なんじゃない?』っていう疑問に行き着きますよね。
それを考えるのにはもっと時間が必要ですが、ボクはそれはそうなんだろうな、って思います。
それと同時に、それは別に悲しいことではないのだとも思います。
『つながり得ない他者との無意識な、奇跡的なつながりを求めること』と『自分のなかに無意識にある何かを、他者に求めること』の違いってけっこう曖昧だと思うし、そして、多かれ少なかれ、人は生涯、自分の中に無意識にある何かを求めるものなんだろうと思うからです。


じゃあ他者はいないのか?
それは難しい問題ですよね、うん。
そんなこんなで『アンナ・カレーニナ』下巻に突入!!