前とはちょっと違う自分

poriporiguchi2007-11-11

こんばんは。
さっきから部屋で本を読んでいたのだけど、ふと気づくと雨の音がしました。
窓をあけて外を見てみると、暗闇に強い雨が降っていて、雷まで鳴っていました。
秋にこんなに雨が降ることってあったっけとか思いながら、窓をあけ、降りしきる雨の音を聞きながらまた本を読み始めたのでした。


今年の初めあたりに自分の中で本の読み方が変わり、そのまま今に至るのだけれど、それもまた少し変わってきたような気がします。
正確に言えば、本の読み方に違いはないのだけれど、本への姿勢が少し変わったような気がするんだよね。明確な言葉にするのは難しいのだけれど。


今週働いていてふと思ったのは、メタファーとしてではなく、人は生きていく上で物語から逃れることはできないのだ、ということ。
自分が属している社会というのは、程度に差こそあれ、物語によって作られ、そして規定されていて、そこにいる自分も同時に物語の中の登場人物の中の一人として存在することから逃れられないのではないか、とね。


きっと人は知らず知らずのうちに物語を求めているのだろうなって思います。社会というのは、多くの人に幸福を与えるための装置であると同時に物語を与える装置でもあります。国家同士の争いが絶えないのも、それが持つ物語性ゆえだと思うし、『価値観外交』とか言われるのも一つの意味においては、国家の持つ物語を前提に成立しているような気がするのです。


物語が持つ大きな力は時に悪用され、悲劇をもたらします。戦前の日本の軍部の持っていた思想や、オウム真理教の信者が信仰したものは、ある意味では『物語』と言えるのでしょう。
そしてそれは誰かによって特定の目的のもとに意図的に作り上げられた物語でした。後から見ればおかしなものでも、物語の中に生きている人間にはそれが真実であり、物語の中の以外には自分は存在しません。


ボクが本を読むのはなぜか、と考えてみました。
本を読み、さまざまな物語の中を通り抜けることで、ボクはボクの中でさまざまな人生を生きています。
一つの本を読み終えたあとの自分は、本を読む前の自分とは少し違う、そういうことです。
そして、本に限らず、芸術ってそういうものなんじゃないかなって思うのです。


さて、今日はワインを飲みながら本を読むことにするか。
なんとなく『罪と罰』を読み返し始める。