はかなきもの

こんばんは。
年末年始の実家での日々を終え、今日の昼に寮へと帰ってきました。


実家でみんなとわいわい飲んで食って話しているのもよいものですが、一人でお茶したり、走ったり、本読んだり、ぼぉっと考えてるのもやはりよいものです。実家ではいささか食べ過ぎたので、健康の面で今はひとりの生活がよいのだと思います。なんていったって、思い立って間食しようにも冷蔵庫の中にはビールとかチーズとかオリーブとかしかないし。


かと言って外に買いに行くのも寒いしめんどくさいから『まぁがまんするか』って感じになるんだよね。強制的間食禁止状態。


今、あることがきっかけで、人の生き方について考えています。
っていってもそんな難しいことではなくて、人は自分の人生を考えるときに、どんなイメージを持っているのかって考えているわけです。


どんな偉い人でも、有名人でも、お金持ちでも貧乏な人でも、何不自由なく生きている人でも、いろいろなことを抱えて生きている人でも、死んでしまったら同じなんだと思います。人々の記憶として残るとかいうものはまた別の話で、やはりこの世の中からいなくなるっていう意味では同じなんだと最近思ったのです。いろんな人がいろんなかたちで踊り続ける生というステージからはいなくなってしまうんだろうとね。


だから、死ぬということがスイッチをパチンと切ってしまうようなものだとしたら、自分が生きるということは自分への救済ということ以外の何物でもないのではないかな、と思うのです。


それで、ここからはボクの個人的な考えになるのだけれど(ここまでもずっと個人的な考えですが)、『人生で何かを成し遂げる』とか『人から愛され続ける』とか、そういうことをすると『あの人は立派な人だった、うん』みたいな感じで言われることが多いけど、それって人が生きることの付属にすぎなくて、本質的なものはもっと他にあるんじゃないかって思うのです。


例えばいつかスイッチがパチンと切れてしまうということがわかっているとき、『おれはこれを成し遂げたんだ、みんなの役に立ったんだ』とか『わたしのことを愛してくれている人が大勢いる』とかいうことが、自分がいなくなってしまうということを精神的に許容することにつながるのかな、って考えてみます。それで許容することができる人がいるのかもしれないけど、ボクにはあんまりしっくりとこないんだよね。


かと言って『死後の世界』みたいなことになると、また話は変わってくるんだろうと思う。だって、『死後の世界』があろうとなかろうと、それは現在生きている世界とはまた別のものなのだから。


生というスイッチがいつか切れてしまうことがわかっているとき、自分が生きる中で何をしていくか、っていうことに対する答えは人それぞれだろうし、どれが正しいとかはないと思うけれど、ボクはこの二日間、自分が生きる中で何をしていこうかな、って考えてみました。
とっても曖昧だけど、ボクは生きる中で『自分を相対化』していこうとしているのかもしれないって思います(あくまで自分の考え方の傾向から分析してみただけだけど)。


この世の中にある多くのことを知り、人というものを知り、自分というものを知ること。いろんなことバラバラにしたりくっつけてみたりすること。
どこかに潜んでいる何かのしるしみたいなものを探ることで、自分というものを小さくしていきたいのかもしれません。ここらへんはよくわからないし、きっと今すぐにわかることでもないのだと思うけれど。


考えると難しい問題ですよね。でもきっとこんなこと考えなくても、実際はみんな自然と自分の求めるものを探していくんでしょうね。まぁたまにはこんなことも考えたりして、長かった年末年始の休暇も着実に終わりつつあることから目をそらしてみたらどうでしょう。貴重な休みの過ごし方としては決しておすすめしないけどね(笑)