関係の外側で。

こんばんは。
すっかり暖かくなって、スーツの上着を着ていると軽く汗ばむような陽気でしたね。
もう少しでカラッと晴れた日がやってくるのかな。4月の空はかすんでいて、どうしてもあまり好きにはなれません。


山口県光市母子殺害事件で、被告に死刑判決が下りましたね。
事件の残虐性や、被告の供述、死刑反対派と言われる弁護団のこともあって、マスコミでは大きく取り上げられてきました。
世間でもこの事件については、被告や弁護団の言動に強い憤りを憶えた人も多くいたんじゃないかな、と思います。


そういうことを考えれば、死刑という判決に納得した人は多いだろうし、遺族の本村さんではなくとも、それに共感するところの応報感情を満たすことになったのでしょう。


ボクもこの事件については強い関心を持って見てきていました。
今回の判決について妥当だと思うし、長い間戦い続けてきた本村さんの姿を見るに、言葉がありません。


ただ、本村さんの言葉にこもった意味を感じれば感じるほど、自分を何か本村さんと同じようにして語ることに違和感を憶えます。共感することの力を否定する訳じゃないけど、やはり、ボクたちは本村さんが置かれた立場と同じ場所にはいることはできないのだろうと思うのです。


そして、加害者を赦したり、或いは赦さなかったりすることができるのも、本村さんやご遺族などの当事者でしかありません。奥さんや子どもの死を我がものとして感じる人だからこそ、そこに赦しの可能性も存在するのでしょう。


ボクたちには加害者を赦すことも赦さないこともできません。ボクたちは被害者と加害者の間にある関係の外側にいるのです。そういう意味から言えば、死刑判決が下ったことの意味も、本村さんと同じように語ることはできません。本村さんにとって裁判は、個人的な赦しと大きく関係するのでしょうが、ボクたちにはそもそも加害者を赦すことなどできないのです。


じゃあ、一体何ができるんだろう?
考えているのだけど、いい考えが浮かびません。


関係の外側にいる者としてできること、すべきことは何なのだろうか。
ぼんやりと思うところはあるのだけれど、まだまだはっきりと形をとってはきません。


では、また。