おしつけたりしない

poriporiguchi2008-06-06

こんばんは。
日本列島にはボクの(たぶんみんなも)大嫌いな梅雨前線がやってきて、毎日ボクの心をモヤモヤとさせてくれています。
早く夏になれって感じですよね、まったく。図々しいやつだ。


わたくしはと言えば、訳あって現在地方を回っております。3週間の予定のうち、2週間を消化しようかというところで、実は今なんかも那覇のとあるネットカフェからブログをつけちゃったりしてるわけです。


せっかく沖縄に来たというのに、今週はほとんど雨でした。沖縄の梅雨って、これがまた蒸し暑いのなんのってありません。
夜寝ていても、去年以来、最近また活動を再開したらしい蚊の襲撃を受けたりと散々です。しつこいかもしれないけど、ほんと梅雨ってキライです。


そんな中でもやはり楽しまないと、ということで、夜は沖縄料理をつまみに泡盛を飲んだりしました。ゴーヤチャンプルーとかミミガーとかもずくとか島ラッキョウとか、もともとボクの好きな系統の食べ物なので、居酒屋に関してはだいぶ満足。
なんて言ったって安いからね。『だいたい5000円くらいかな』と思っていると『2000円です』みたいな感じです。すばらしい。


さて、先週の週末は鹿児島市内から屋久島に行ってきました。
日帰りと制約もあったし、何の用意もしていなかったので、本格的な山登りはできなかったけど、テクテクと5時間かけて太鼓岩まで登ったりね。
以前から屋久島には行きたいな、と思っていたのでいい機会だったわけだけど、屋久島には抱いていた期待以上のものがありました。


世界遺産に登録されているということもあって、人の手が入っていないし、ごみは落ちていない。倒木の上にまた杉が生えていたり、血管のようにして杉の根が山を覆っていたり、ふと見ると鹿が歩いていたり(奈良の鹿みたいに図々しいやつではありません)、いろんな生命体が各々の営みを続ける中に島自体が全体として生きているかのような感じを受けます。


静寂、混沌、自分を包む場所が、その時々に意思や目的を伴わず変化し、自分とその場所を隔てるものが段々曖昧になっていきます。
深い緑の中を抜け、太鼓岩から海に囲まれた島を見渡したとき、いくら文明が発展しようとも、人間なんて永遠にこの地球の表面に必死にへばりついて生きていくということに変わりはないんだろうな、と何とはなしに思いました。体の力が抜けるような素敵な感覚でした。


帰りのフェリーで夜の海の向こうに光る対岸の灯りを見ていました。
ぼんやりと、自分を形成するアイデンティティーなんて、実はけっこうあやしいものだよな、と思いました。
日本っていう国とか、東京っていう都市とか、会社とか学校とか家族とか、それはただの概念でしかありません。
たとえば日本っていうものがテクテク歩いてきて『やぁ、どうもこんにちは』とか言って手を振ったりはしません。
すべてのものが、人類が歩んできた歴史の中で作られたものであるわけです。
たぶん最初は便宜的に機能的な観点から作られたんだろうけど、それを維持していく中で『こういう風に教えたら、難しいこと考えなくても、みんなに伝わるんじゃないかな、ふむ』みたいな感じで社会の中に溶け込み、人々をアイデンティファイする機能を持ってきたのでしょう、きっと。


ジョン・レノンは『国籍も宗教もないって想像してごらん』と言いました。
そういう考えを否定するつもりはないし、すばらしい歌だと思うけれど、ほんとに人間からすべての境界をとってしまったら、きっと屋久島の中を一人歩く人間のようにある意味孤独な存在になるんじゃないかな、と思ったりします。
『自然は守ろう』とか『家族を大切にしよう』とか『人のためになるんだ』とかそういう思想めいたものもなくなって、あまり言葉を必要とせず、大きな営みの中に生まれ、そして死んでいくようなかたちに戻っていくんじゃないかな。


ふと思うと自分には、いろいろなものや考えが押し付けられています。それを文化とか言うのかもしれない。たぶん現代社会で個人を維持していく上では必要なものなのでしょう。
でもそれはそれ以上でもそれ以下でもないはずです。


わかりにくいかもしれないけど、なんとなくいろんなものが本来の質量を超えたかたちで押し付けられているんじゃないかな、って気がします。
だから時にそれを窮屈に感じ、屋久島にいってほっとしたりするんじゃないかな、と思ってみたり。


さて、そろそろ宿に帰るとするか。ではみなさま、ごきげんよう