揺さぶられる

いつもは何とはなしに当たり前だと思ってることでも、じっくり考えてみるとその持つ意味が曖昧だったりすることってよくあります。
そのときにはキチンと意味を持っていたのだけれど、時間が経過する中で不必要になっていたり、誰かが何かのために作ったのだけど、今となっては誰が何のために作ったのかわからなかったりしたり。


でも、その物の存在を考えなくなることが悪いことかというと、そうとばかりも言えません。なぜなら人間は繰り返し行う行動を無意識化することで、運動を効率化することができるからです。
歩いたり、走ったり、話したり、笑ったり。いちいち考えてたら、たいへんなことですよね。だいぶギコチなくなってしまいます。


ただ、ふとした瞬間に、自分を取り巻く社会や生活に潜む習慣化された“何か”を一つ一つ考えていくと、まるで自分が依拠していた土台を失ったしまったかのような不安な気持ちになります。


人によっては、習慣化された物事の理由を聞くと、まるで考えること自体が悪いかのように怒ったりするけど、それはある面でそんな不安の裏返しなのかも知れません。習慣化されているものも、突き詰めていくと、その形自体に意味がなかったり、意味はあるけど他の形もあり得る場合が多くあるし、そんなことを気にしていたら日々の生活自体がギクシャクしてしまうのでしょう。


ふと気付くと、自分の周りにはいろんな決まりがあります。そして、意味こそわからないけれど、それに規定されることによって、きっと日々の生活の8割くらいにおいて生きやすくなっているのだろうと思います。でも同時に、残り2割くらいにおいては少し違和感を感じたりもしているような気がするのです。


最近思うのだけれど、人が心から感動したり、変化しうるのは、それが望むと望まないとに関わらず、全ての意味を取り払われたもの自体を目の当たりにし、自分から意味を付加する間もなく、人の存在が意味という座標軸を失って“揺さぶられる”ときなんじゃないかな。


そう考えると、予定調和的な恋愛小説だとか、『泣ける話』だとか、どこかで聞いたようなフレーズをつかい回す音楽とかって、結局は人間を生きやすくする習慣化されたものとして考える分にはいいのだけど(だからある意味『ほどほど』で安心するのでしょう)、人を大きな力で動かしたりはしないんだろうね。


目をそらしたくなるような事実をじっと見つめてしまう人、それはいろんな分野にわたると思いますが、その人達はきっと自分が“揺さぶられる”中で現れてくるものを見てみたいのでしょう。それに意味を与えるのではなく、判断を保留し、そのものに近づいて行きたいのでしょう。


そこまで大げさではなくとも、たまには自分の軸を離れ、“揺さぶられ”てみるといいかもしれません。自分の考えていること、信じていることが他のかたちをとって見えてくるかも知れません。そういうのって、けっこうステキだと、ぼくは思います。