こんな道が何処に続くのさえ

poriporiguchi2008-06-29

この頃思うのだけれど、人には人の数だけ、抱え込んでいるものがあって、それを何とかしようと闘っているのでしょう。
それがどんなかたちのものであれ、その闘いがどのようなものであれ、その人にとっては何よりも切実であるのでしょう。


自分がどのように自分であるのか、という命題を抜きにしては人は生きられず、逆に言えば、生きるということは自分が何故自分であるかということを見つめ続けることであり、見つめ続けていくことで少しずつ自分から遠ざかっていくことなのでしょう。
人は他者をとおしてしか自分を確認することはできないのだけれど、他者の向こうに見ているものは紛れもない自分であり、他者と接するということは或いは、他者の中に自分を探すようなことなのかもしれません。


もし、そうだとすれば、仕事にしても何にしても、それが多くの人のためになっているように見えることも、ごく小さい範囲に限られているように思えることも、結局はまだ見ぬ自分への追求ということにはかわりはないのだと。他者への関わりへの欲求とは自己への探求の変化なのだと、そう思うのです。


鬼束ちひろの『声』の歌詞に
『こんな道が何処に続くのさえ 分からずにいるけど 立ち止まり貴方を見失う方が 悲しいだけ』
とあるけれど、自分が何故に自分であるかという不安を持ちながらも、他者であるところの『貴方』に関わりつつ、その中に自分を見つめ続けることしかできないのだろうな、と思います。


自分が何故に自分なのか、ということは、自分がどこまで行ったら自分でなくなるのか、ということの裏返し。
そして、自分が自分であり、自分が自分でなくなる瞬間にこそ、なにかの啓示があるのかもしれません。ぼくはといえば、夜に降る雨を見つめながら、そんなことを考えたりしています。


鬼束ちひろのライブDVD『ULTIMATE CRASH’02 LIVE AT BUDOKAN』はいいですね。
最後の『月光』を歌う鬼束には自分の奥深くにあるに何かを揺さぶる何かがあります。どうせ外は雨なのだから、たまには部屋にこもっていろいろ考えてみるのもいいものですよ。