距離をとること あきらめること

こんばんは。
やれやれやっと夏になった、と思ったら、明日からはもう8月なんだよね。単調ながら情報から切り離されたストイックな生活を送ってると、何だか時の流れがとてもはやく感じられます。だって、ついこの前まで7月が始まったばっかりだったのにさ。


いくら勉強ばかりの生活とは言え、ビールの500ml缶を2本飲みながらたっぷりの野菜炒めとベーグルを食べる晩御飯のときくらいはテレビを見たりします。
バラエティーはうるさいし、特にクイズ番組とかは、何で自分の時間にまで人から自分の知識や能力を試されないといけないのかわからないのであまり見ません。よく見るのは、ありきたりのサスペンスとか旅行番組、なんと言っても多いのがNHKのドキュメンタリーとかです。


月末の夜は、よくNHK教育の『ハートをつなごう』という番組を見ます。番組名からだけだと心温まる番組だと思う人もいるだろうけど、この番組では虐待や性同一性障害などによって困難な経験をしてきた人たちが様々に感じる思いや苦しみが、手紙や実際の会話によって語られていきます。まぁ普通の人が御飯食べながら気軽に見る番組ではないと思います。とてもいい番組だと思うけど。


今日、虐待の経験を持つ人からの手紙が朗読者としての奥菜恵によって紹介され、親子をイメージした映像とともに『距離をとること 親をあきらめること』というテロップが流れました。


簡単な言葉だけど、それがぼくの心にストレートに届いてきました。
最近起きている様々な事件の報道を見る度に、『いろいろつらいこともあるだろうけど、何で社会の中で自分が生きていく可能性を自分から損なってしまうようなことをするんだろう』と、どこかで思っていた自分がいました。


でも、きっとそうではないのですよね。
一概には言えないけど、彼らには多くの人が考えているような社会など存在しないのです。彼らにとっては、家族などのごく少数の人が属するきわめて狭い世界こそ、彼が存続しうる場所なのです。だからその世界を守るために、その世界に含まれない顔の見えない他者に暴力をふるい、自分の存在を確かめようとする。


カフカは『城』の中で、職業が大きな存在価値となった社会の中で疎外された人間の姿を描いたと言われているけど、きっと社会には、学校や職場などのパブリックな場から疎外された結果、ごくごく狭い世界の中で自分をアイデンティファイしようと必死にもがいている人がたくさんいるのではないかな。
そして、彼らがその狭い世界に不安を感じるとき、自分を疎外してきた関係のないものとしての社会に対する暴力的な働きかけが、惨事として現れてきているのではないのかな。


行き場を失った自分が存在する狭い社会において、自分を強く規定してるものから『距離をとること あきらめること』はとても難しいことだと思います。でも、それを抜きにしては困難を克服することはできないのだろうとも思います。


様々な出来事について批判だけするのは簡単なこと、人を殺したりするのがいけないことだって、そんなことは誰だってわかってます。何をすればいいのかはわからないけど、少なくとも社会というシステムから知らずに疎外されている人たちが、何かから『距離をとること あきらめること』を支えるようなものがあれば、少しづつ救われる人もいるんじゃないかな。そしてそのかたちは直接に、間接に、いろいろあると思うのです。


そんなことを思った今日でした。
さて、本を読もう。