そのことのしくみ


こんばんは。
今は金曜日の夜、正確に言えば土曜日になったばかり。明日からは三連休だということでパッと街の居酒屋で飲んでいてもよさそうなものだけど、何を隠そうひっそりと一人で家にいます。それは別に友達がいないからとかそういうことではなく、ただそんな気分だから。なんか言い訳みたいだけど・・・とにかく一人でパソコンに向かい、大西順子の『Junko Onishi Live At The Village Vangard』を聴きながらカタカタとブログをつけているという次第です。


今週は涼しかったかと思うと今日みたいに急に暑くなったりしてムチャクチャな天気でした。そういえば火曜日にすごい夕立も降ったな、たしか。
毎日コツコツと英語を勉強しながらも能力向上の遅さにがく然とする毎日だけど、まぁそれはそれで面白みもあります。決して到達はしない目標に向かって少しずつ進む感覚、澄み切った青空に小さく浮かぶ雲に触れようと、どこまでも高く続くはしごを一段ずつ上っているようなね。誰もその努力を笑うまい。


さて、ぼくはそこまで政治とかに興味は持っていないのだけれど(ほんとです)、揺れ動く政局は否が応でもテレビのニュースなどを通じて目に入ってきます。う〜ん、どうなるのかなぁ・・・と眉を寄せながらも、まぁいずれくる選挙にはいかないとなと思っているこの頃。


この頃、マスコミの報道や様々な人の声を聞いていて、この人達は誰を批判しているんだろうってふと思いました。
政府?政治家?官僚?企業??この人たちは一体『誰』を批判しているのだろう、と。


社会人になってそんなに経験を積んでいるわけではないけれど、多くの人が簡単に『国』とか『政府』とか『企業』とか口に出して話をするとき、ぼくはちょっとした違和感を覚えます。たしかにそういった言葉は便利だけれど、あなたはほんとにそのものの存在を感じたことがあるのですか?自分の言葉が意味するものの存在を確信しているのですか?ってね。


たぶん、誰もそんなもの見たことはないはずです。きっと『国』とか『政府』とかだったら、国会議事堂とか政治家とか首相とか閣僚とかを、『企業』だったら、会社のビルとか名刺やプレゼン資料に入ったロゴとか日経新聞に載った社名とかを、そのもの自体と思いこんでいるだけなのではないのかな。


例えば日本社会には問題があると言う。でも日本社会っていったい何だ?とはあんまり考えない。
きっと一人の人が生涯生きていく中で会う人の数など限られているのに、その人に何らかの名前をつけ、カテゴライズし、一般的に語られるその枠に収まる人全体のことを知ったような気になったりする。そういうことってよく起こっていると思う。


何らかの重大な決定や大勢の人の意思と思われることも、実は一人の人が頭を振り絞って考え出した結果に過ぎないのだと思うことがあります。様々なところで批判しているものは、実は元をたどれば一人の人の決定であったりするのだと思うのです。そしてここからがほんとの問題なんだと思うんだけど、じゃあ普段は声を大にして批判している人たちでも、いざその人自身を目の前にすると、簡単には批判できなくなってしまうと思うんだよね。なぜなら、その人はカテゴリーに張り付いたイメージとは違って実はいい人だったり、逆に何を言っても無駄なくらいにダメな人だったり、或いは他の誰よりも必死に考えて決定を下していたりする場合もあるから。まぁあくまでぼくの感覚ですが。


だから最近テレビを見るたびに、『言いたいことはわかるんだけどな、これじゃ何にも変わらないよな』って思います。大切なのは何かを批判することではなく、誰がなぜそう考えたのかを知ることなのだと思うんだけど、どうだろう?


難しい話はやめにして、実はさっきまでDVDで久しぶりに『LOST IN TRANSLATION』を観ていました。何年ぶりかなぁ。
何か特別なことも起こらないし、結局彼ら彼女らにドラマチックな変化があるわけじゃないんだけど、よい短編小説のように両手のひらで包めるくらいのあたたかさを心に伝えてくれるステキな映画だと思いました。二回目に観た方がよかったっていうことが何か少しうれしかったりします。


夏休みにNHKで見たからでしょうか。京都や奈良に行って仏像が見たくて仕方がありません。
でも休み明けでお金もそんなにないので、今のところは部屋に飾ってある仏像の写真を眺めて我慢することにしています。
写真は去年京都に行ったときにとったおじいちゃんの写真。知らない人です。話してもいません。でもこういう感じが好きだったりします。