わすれない

この頃いろいろ考えることも多くて、部屋の中で一人『・・・』ってしている時間が多いです。
きっと問題自体は考えてもどうしようもなくて、ささやかにでも何処かに自分を移動しないと、きっかけようなものすらつかめっこないことは分かっているんだけど、それでもそのささやかな一歩をどこに向かって踏み出して良いのかわからず、テレビを消した部屋でルービンシュタインショパンをエンドレスで聴きながら相変わらず『・・・』とし続けるわけです。


そんな『・・・』っていう時間の中で何となく考えていたことのいくつかのうちの一つ。


ウソについて・・・
自分が今までついてきたウソの中で一番酷いものって何だろう?って理由もなく考え出して、けっこう長い時間考え続けてみたんだけど、結局決めることができませんでした。思い浮かぶものと言えば、小学生の時、塾で酷い成績をとって母親から『成績返ってきた?』と聞かれてときに言った『まだ』というウソ、誰かのノートに落書きして見つかったときに思わず言った『ぼくじゃないよ』というウソ、そんなものばかりです。そのときに感じた何だか締めつけるような息苦しさは今でも心の奥に感じることができます。


でも、きっと大学生になってからとか、もっともっと酷いウソをついたことがあると思うんだよね。そのときに感じた気持ちみたいなものは何となく覚えているんだけど、どんなウソをついたのか思い出せないのです。たぶん自分の中には自分が知らないシステムみたいなものがあって、自分の都合の悪いものを時間とともに消していってしまっているんじゃないのかな。
何かを忘れないことには、いつかぼくの頭は後悔だらけになってしまうしそれは精神衛生上も良くないから、自己防衛本能みたいなかたちで『まぁこれは消しちゃった方がいいな』っていうことになっているんだと思う。


仕方ないのかも知れないけど、それって酷い話だよね。そのときに感じたものは何処に行ってしまったのだろう。きっとぼくは世界と同じように失われていくもののことを忘れ続け、何も学ばないんじゃないかと思うと、心の底から愕然とした気持ちになります。


カズオ・イシグロの本のもつ特徴(であり魅力)は人が持つ記憶の曖昧さを静かに、そして切ないほどリアルに読者に伝えるところにあると思います。
物語の語り手である主人公は自分の語る記憶を真実であると信じると同時に、それが自分の中のどこか知らないところでいつの間にか組み替えられ、事実とは異なってしまっているということを心のどこかで気付いているように思えます。恋愛であり、誇りであり、友情であり、そんなものの中に存在する小さな自己破綻をいくつも抱え続けながら、それでも生きていくわけです。


きっと、ぼくたちの記憶もいろんなところで組み替えられていて、自分の記憶も事実からはかけ離れてしまっているのかもしれないな、って思うことがあります。それは悪いことだけではないのだろうけど、たまに『余計なことするな!』って思ったりもするんだよね。そんなこと言っても仕方ないのだけど。

明日からは久しぶりに晴れるみたい。そう考えるだけでも少し気持ちが明るくなります。天気って大切だよね。