よりかかる

こんばんは。
ふと気がつくともう少しで11月なんですよね。なんか振り返ると時間があっという間に過ぎて行ってしまっているような気がします。
研修中ということもあり(もう少しで終わってしまいます、しくしく・・・)、今まであまり時間をとってこなかった映画鑑賞に時間を割き、本も読む分野の幅を広げました。忙しく働いているときは空いた時間に本を読むだけで精一杯だったけど、意識して静かに考える時間もとることにしました。
そうやって数ヶ月経ったいま、自分の中の変化をはっきりと感じることができます。
それは『あの時の自分はウソだった』とか『やっと自分は目覚めることができた』とかいうたいそうなことではなくて、もっともっと当たり前のこと。

きっとどんな人も何かに寄りかかることなしには生きていけないっていうのは、いろんな人が言っていることです。それは仕事だったり恋愛だったりいろいろあるわけですが、自分をそこに寄せていくという意味では違いはないと思います。だから『生きている間に何かを成し遂げるんだ』とか『自分は苦しんでいる人を救いたいんだ』とかいう考え方すらもいろいろある中の一つの『寄りどころ』でしかないとも言えるのでしょう。

じゃあ何で寄りかからないと生きていけないかというと、それは自分という存在がとてもあやふやなものだからです。自分が『自分』と考えているものなんて決して確かめることができないからです。それを真剣に見つめ続けようとすると、果てしなく不安になり孤独になっていきます。だから何かに寄りかかりって、そこから押し返されてくる反作用の力を通じて『自分』を感じることで、生きていくための土台みたいな物を据えることができるんだと思います。

誤解を怖れずに言えば、そういう意味では『偉い人』も『偉くない人』もいません。『尊敬できる人』も『尊敬できない人』もいません。人はそれぞれに自分の『寄りどころ』に寄りかかることで生きています。その寄りかかりかたが結果として多くの人のためになるかもしれない、人に夢を与えるかもしれない、誰かを幸せにするかもしれない、でもそれはあくまでその人の寄りかかるところが違うというだけのことです。

ただ、その寄りかかりかたによって社会における生きやすさが変わってくるということはあるように思います。
『自分の好きな人を幸せにするんだ』というふうに寄りかかれる人は、相手も自分に寄りかかってきてくれればとても幸せに暮らすことができるでしょう。『みんなのためになる』という考え方(もちろんそこには人の数だけの個人的な思いがあります)も社会では認められやすいから、現実的なかたちをとることができれば十分な『寄りどころ』となるでしょう。それはその人にとっても、その人の周りにいる人たちにとっても、とても良いことだと思います。

でも一方で、そういう風に認められやすい『寄りどころ』を見つけることができない人がいることも確かです。中には酒やギャンブルなどを『寄りどころ』にして自分を安定させる反面で自分を損なっていく人がいます。社会に潜む暗がりに疑問を感じてカルト宗教を『寄りどころ』にし、大勢の人の生活を損なうような犯罪に関わるようになる人がいます。どこにも『寄りどころ』を見つけられずにある日突然、街中で知らない人の命を奪う人がいます。

さて、じゃあ普通に幸せに暮らしている人とそうでない人のどこに違いがあるのだろう?
もっと言えば、彼ら彼女らと自分との間には倫理において何か決定的な違いがあったのだろうか?

難しいですよね。たぶん違いなんてないんでしょうね、きっと。みんな何かに『よりかかろう』としているだけなんだから。
誰が悪いとか言うだけじゃなくて(そういうのも必要だとは思うけど)、そういうあやふやなものの前に立ち止まってジッと考えることも必要なんじゃないかなって思ったりするんだよね。そういうのって今時あんまりはやらないみたいだけど、何となく。

けっこう冷えてきましたね。今日は旭川で初雪が降ったみたいです。空もなんとなく冬っぽくなってきたし。
最近はもっぱらグレン・グールドを聴きながら論文のための文献を読む毎日。ゴールドベルク変奏曲に関して言えば、後期の演奏の方が好きです、なんとなく。
おいしい白ワインが飲みたくなる季節ですね。ではまた。