小さいようで大きな問題

金曜日の夜、みなさまエンジョイしていますか?
ぼくはいつも通り、一人家でビールを飲んだり本を読んだりしていました。何回も言うようですが、けっして友達がいないからってわけじゃないからね。・・・たぶん。

最近かたい話しばかり書いていますが、今日もまたかたい話・・・すみません。
さっき何気なくネットをを見ていたら筑紫哲也氏が逝去したというニュースがありました。テレビをつけてTBSを見ると筑紫氏のかつての姿が映し出されていきました。
ぼくははっきり言ってテレビで見る彼の意見には同意できないことの方が多かったし、大学のときなどは感情的に怒っていたこともありましたが、いま冷静に見ると良いにしろ悪いにしろ彼の意見はある形で時代を切り取ってきたことは確かなのだろうな、と思います。そして同時に彼の死はそういった考え方の終わりを暗示しているのではないのでしょか。

筑紫哲也久米宏などのキャスターを中心にしたニュース番組が世論に大きな影響を与えた時代がありました。個人的には今でもニュートラルなスタンスであったとは思わないけれど、それでもやはりテレビがメディアとして何かを伝える力を持っているいたことは確かだろうと思います。

しかし、いつの間にか人々はニュース番組を見なくなりました。ネットの方が手軽に情報を手に入れることができるし、押しつけがましい解説もついていない。日常生活でネットを使わない中年世代以上は依然としてテレビを通じて情報を入手し、難なくネットを使いこなす若者世代はネットを通じて情報を入手する。ここによく言われるところの情報の断絶が起こります。そしてそのギャップは、ターゲットを明確に認識したメディアの情報選別というかたちで加速しつつ拡大していきます。

古館伊知郎が悪いわけではなく(おそらく)筑紫哲也の後任のキャスターが悪いわけでもない(たぶん)。
ただ人々が世代を超えてテレビを眺め、ニュースキャスターを通じて意見を構築するという時代はもはや終わったのではないでしょうか。

そしてネットはポスト・テレビ時代のメディアとして今や確実な力を持っています。しかしそこでは圧倒的な量の不確実な情報が溢れ、留まることなく通り過ぎていく。様々なアクターがあることで、一つ一つの情報は相対化され、その内容は人々にとって希薄になる。テレビと違ってネットを見るという行為はとても個人的だから、その情報をめぐって人とコミュニケーションする機会は少なくなる。どこかで起きていることを自分に引きつけて考えることが少なくなっていく。

好むと好まざるとに関わらず、そういう世界になってきていくような気がします。
情報へのアクセスが個人的になる一方で、世代間の断絶がそのまま現実のディスコミュニケーションへとつながり、世代間でお互いに対する的外れな分析が続くことになる。
これは家庭みたいな小さなレベルから政治のような大きなレベルまで言えることであり、日本の社会に内在するとても大きな問題として膨張を続けていく。
『家ではおじいちゃんは新聞読んで、お父さんはテレビを見て、小夜子(誰?)はパソコン、みんなバラバラなのねぇ、ふふふ』って言うとたいしたことないようだけど、実はそういうことが生み出す結果って結構深刻なのかもしれない。

筑紫氏の死を追悼するキャスターの姿を見て、マスメディアに携わる当事者としてその切実さを感じているとは思えなかった。『テレビ業界たいへんだよな』くらいは思っているかもしれないけどね。
一つの世代が確実に社会の中心から消えて行っている。しかしその後にあるべきものの姿はどこにも見えない。中心を失って運動は拡散し、知らぬ間にサイクルの中からこぼれ落ちる人たちがいる。誰もそんなこと気にしない。意味を持たない情報のみが断絶の中に吸い込まれていく。もちろん良いこともあるし悪いこともある。でもその新たな仕組みに注意を払う人はいない。それでいいと言うのならそれでいいのでしょう。

でも、ほんとにそれでいいのかな?とぼくは思う。
・・・ふぅ、疲れた。さっき買ってきた少し高めの白ワインを飲んで『荒野へ』を読もっと。
ではみなさん、良い週末を。