やくにたたない

poriporiguchi2008-11-14

さて今週も金曜の夜がやってまいりました。冬の気配もこくなってきましたがみなさん元気に暮らしていますか。
ぼくはと言えばこの頃は専ら小春日和の陽気に窓を開け放ってPCに向かってパタパタと論文を書いています。

文献や資料をパラパラと拾い読みしながら、自分がぼんやりと感じている考えをきちんと論理的に整理して文章化していくのって結構大変なことです。こういうブログにみたいに
『実は最近体調が悪くて一昨日から禁酒しています。話は変わるけどそういえば昨日そば屋でビールを飲みました、おっと・・・(うそ)』
みたいな気まぐれな文章を書くのとは訳が違います。まぁある意味でトレーニングみたいなところはありますね。
アカデミズムの世界で論理性というものを重視しなくなったら議論自体がなり立たなくなってしまうのでこんなこと言うのも正当な意見ではないのかもしれないけど、文献とディスプレイを睨みながら「ああでもないこうでもない」と悩んだ結果現れてくる文章が100%自分の中にあったものを表現しているかというと、やはりそんなことはなくて、結構大切なニュアンスのようなものが失われてしまっているような気がします。それでも「まぁ仕方ないか」ってところで進んでいくしかないわけですが。だから論理って自分の意見を遍く人に伝えようとする際の道具であるわけだけど、それ以上のものでもないってことですね。

そんな論文執筆中心の毎日ですが、やはり寝る前にはベッドに入ってワインを飲みながら本を読んでいるわけです。いま読んでいるのがジョン・クラカワーの『荒野へ』というノンフィクション作品。知ってる人も多いと思いますが、この本はエリートとして大学を卒業した青年が全てを捨てて放浪生活を始め、やがてアラスカの荒野に一人入ったまま餓死したという実話を扱っています。文明社会への批判にしてもところどころにアメリカ的な発想を感じざるを得ないところはあるし、青年の行動にも『この人は激しく何かを求めていたにしろ、さすがにちょっと幼稚でアホなんじゃないか』と思ってしまうところがあるんだけど、その底にある孤独感のようなものには静かに共感できるところがあります。

見方によっては命知らずで青くさい青年の行動にアメリカ国内でも批判はあったわけだけど、この本の面白いところは作者がそのような批判を受け入れながらも、かつての自分や他の人々の生活と重ね合わせてその批判の無意味さを暗に語っているところです。
おそらく自分を孤独に追求している人に『反社会的だ!』と糾弾したところであまり意味はないんじゃないかなって思います。多くの人があまり気にとめないものに目を凝らして何かをつかもうとする人には実社会で目に見える役に立たったりしない人が多いんじゃないかな。ドストエフスキートルストイといった大作家にしろ、彼らが著作をとおして目に見えないかたちで誰かの心を救ったとしても、実際の生活においてまともな人間であったとはとても言えないでしょう。サリンジャーなんかファンは多いけど(ぼくもそのうちの一人ですが)『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデン・コールフィールドに象徴されるようにはっきり言って実際に目の前にいたらけっこうやっかいな人間だと思う。自分の嫌いなものを批判してばかりいるけど、かと言って実際に何をするわけでもないし。

おそらく『荒野へ』の主人公の青年と彼らの違いなんてほとんどないんだと思います。現実世界で何かしらの職業体系の中で表現する場を得たから有名になる人もいるのだけど、きっと彼らは『仕事』だからそれをやっていたわけではなくて、自分の中にある曖昧なもの何らかのかたちで表現したいと思っていただけなんじゃないかと思うんだよね。

まぁだからそういう人に『反社会的だ!』って言ってもあまり意味はないってことです。

ぼくは秋の晴れた公園で何もせずにビールとか飲むのが好きなんだけど、たぶんそれはどこかで『社会とか仕事とか決まりとか習慣だとかってめんどくさいなぁ』って思っているからだと思うんだよね、あんまりよくわからないかもしれないけど。普通に暮らしている中にも、理由もよく分からない規則みたいなものを盲目的に信じて真剣に悩み、それで逆に他の人を苦しめているような人って結構いて、そういうの見ていると『くだらないな』って思ってしまいます。そんなのならよほど『反社会的』であっても自分が持つリズムを感じようとコツコツ努力していたいですよね。生活していくために妥協しないといけないこともあるのはわかるけど、少なくとも自由であることを諦めたくはないものです。青くさいですかね。まぁ青くさいんだろうな(笑)

さて、そろそろワインを開けて本でも読むか。ではみなさま良い週末を。