あなたの持つ物語


こんばんは。また金曜の夜がやって来ました。
習慣的に生活を送っているその時には時間の流れって決して早くは感じないけど、それを後から眺めるとあっという間に過ぎ去っているような気持ちになりますよね。たしか、こんなことは『魔の山』のハンス・カストルプも言っていたな。
まぁそう考えてみると、いい小説だからといって、その内容の隅々まで素晴らしい表現に満ちているとは限らないってことです(笑)

これから迎える週末は、ぼくの生活という小さな時の流れの中でけっこう大きな意味を持つ節目でもあります。なぜなら今週で研修が終わり、来週からはまたバリバリと働く日々へと戻っていくからです。そういう仕事するために就職したわけだし、研修後半は『そろそろ働きたいなぁ』と少し思ったりもしていたのですが、やはり社会の課題や人間関係の渦巻く実務に戻るにはそれなりの覚悟が必要なわけです。まぁ根が楽観的な人間だから基本的には『なんとかなるだろ。がんばるしかないよね』って思ってますが。

さて、半年にわたる研修期間が終わるというこの機会に、比較的自分の時間を持つことのできた日々の中で、少しずつ考えてきたことをちょっと書いてみたいと思います。

ぼくはもともと『人が生きていくって何なんだろうな?』っていう思いをどこかしら持っていて、現代社会の中で嫌が応でも生活の中に大きなウェイトを占める仕事や恋愛や友情や(っていうか人間?)、そういうものについて自分なりに関心を持って見てきました。仕事については入って2年間あくせく働く中でいろんな人の働く姿を見てきたし、恋愛とかについてもまぁ歳をとってきたからこそわかること(或いはわからなくなること)もあるわけで、そんなこんなについてこの半年間ぼんやりと考え続けてきたわけです。

なんかはっきりとは言えないんだけど、仕事とか恋愛とか結婚とかを通じて、人が社会の中でどう生き、人にどんな影響を与え、人からどんな影響を与えられるにしろ、その中心にあるのは一人の人間が持つ物語なんじゃないかって思うようになりました。仕事がうまくいかなくて悩んだり、恋愛関係に不信を覚えたり、自分の将来に不安を感じたるすることとかあると思うんだけど、そういう現実的な問題と向き合っているとき、人は同時に自分が知らず知らずに持っている自分の物語の整合性を何とか保とうと必死にもがいているんじゃないかな、とね。

言い換えれば、一つの世界で他者との関係の中に自分を如何に位置づけようと悩むとき、もう一つの世界では自分の持つ物語の中に現実の自分をどう読み込もうかと苦しんでいるんじゃないかな、と思うのです。

だから、周りからしたら『なんであんなことで悩んでるんだろう?』とか『とりあえずやってみれば良いのに』と思えることでも、本人にとったらどう向き合って良いのかわからず途方に暮れてしまったりする。そしてほとんどの場合、本人は現実の出来事についてはうんうんと必死に悩んではいるんだけど、自分が意識せずに持っている物語のことは放ったらかしにしているように思えるのです。

かたちこそ違え、人が生きるっていうのはある意味では『自分の持つ物語を読んでいくこと』なんじゃないかなって思います。何を通じてそれを読むかは人それぞれ、人の数だけ物語があり、生きている間にどれだけの物語を読めるのかもわからない。もしそうだとすれば、人が生きるってとても小さくて、とてもささやかなことなんじゃないかなって。自分の持つ物語に目を凝らし、耳を澄まして、その小ささやささやかさを素直に受け入れて前に進んでいくことが生きることへの祝福につながるような気がするのです。

なんか相変わらず観念的な話でわかりづらいですね。来週から仕事が始まると、こうやってどこにも行き着かないようなことを『うむむ・・・』って考える時間も減るのだけど、地道に続けていきたいと思っています。これも何かの中に自分の持つ物語を読もうとしているからなんだろうね。

こんな話をしていると『でも、それって結局何にも言ってないじゃないか』ってことになって、そう言われたら『まぁそうですね』って言うしかないのだけど、ただ、こんな話でもちょっとした励ましにはなります。まぁ要するに『これからもずっと小さいことを続けていくわけだから、いま悩んで苦しくても、自分のあるようにあればいいじゃない』っていうことだよね。

さて、いよいよ12月になりましたね。今年も残すところ1ヶ月、素直に静かに暮らしていきたいものです。
明日からは冷え込むみたいですが、体調に気をつけてくださいね。ではよい週末を。

写真は修善寺の空に広がる紅葉。