それは愛でもなく

poriporiguchi2009-05-03

こんばんは。風の強い夜の2時過ぎです。
最近、ぽかぽかと暖かい日が続くようになりましたね・・・と思っていたら、気がつくと待ちに待ったGW。みなさんは楽しく過ごせていますか?
様々なことを考え、学ぶことも多い一方で、ストレスフルな最近の仕事もようやく中休み。ぼくもこの9連休(ピース!)をのんびりと過ごしていきたいと思っております、はい。


さて、昨日はその連休の初日を良い日にすべく、ずいぶん前から心待ちにしていたクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』を観てきました。アメリカ中西部に住む保守的な白人の老人が、アジア系の青年やその一家との出会いの中で、それまでの生活になかった安らぎを静かに見つけていくというストーリー。前半は何か特別なことが起こるわけではないし、肩肘を張って見る作品ではありません。スクリーンに流れる映像に身を委ね、時にユーモラスな展開に自然と笑みもこぼれます。


しかし、後半になるに連れ、老人は親しい者との関係の中で静かに考えるようになります。自分の生や死に、静かに、時に荒々しく思いを馳せていきます。そしてラストのシーン、差別、暴力、不和、非寛容・・・それらを前に老人がとる行動を前に、観る者は言葉を失います。
抗いがたい暴力性を前にして、老人が静かにとった結末に、人々が住む世界と、そこ生きる一人の人間の係わりの一つのかたちを見ることができます。良きにしろ悪しきにしろ、それについては判断という行為は無意味であるかもしれません。


話は変わるけど(これを読んでる多くの人が知っていると思いますが)、少し前に村上春樹イェルサレム賞の受賞式で『壁と卵』に関するスピーチをしました。彼の言う『壁と卵』は、イスラエルパレスチナのことでもあり、社会というシステムとそれに対する個人のことでもある。そして抗いがたい力を持つ国家や宗教や偏見を前に、あまりに脆弱なものとして存在する人間のことでもある。小説家らしいとてもいいスピーチだったと思います。


僕は村上春樹の作品が好きで、彼の作品は中学校のときから繰り返し読んできているし、僕の人格の少なくない部分に彼の作品の影響があると思っています。受賞の際のスピーチにも心を動かされ、スピーチを取り上げた友人のブログなどを読んで、また心を動かされました。僕も自分なりに声をかけ、知り合いに彼のスピーチを聴いてもらうようにしました。ただ、自分ですぐにブログに書かなかったのは、彼のスピーチをどのように書いて良いのかわからなかったからでもあります。


スピーチに共感する人が増えていけば世界は少しずつ安らぎに満たされていくのか、僕にはよくわかりません。そもそも人が誰かのことを真剣に思うことが、思われる人々にとって良いことなのかどうか、それもわかりません。人に対する思いの善悪は誰にも検証できず、場合によっては良くないものともなりうるからです。カート・ヴォネガットはそれ故に、人の幸福のために大切なのは愛ではなく親切だと言いました(あくまで彼なりの表現方法ですが)。


グラン・トリノ』は世界の底に潜む抗いがたい何かに、一人の人間として静かに答えを出した老人の話であると、僕はそう思っています。いわゆる愛ではなく、いわゆる親切でもない何かを、彼は行ったのだと。人のことを思うと同時に、非常に個人的な生き方を彼は選んだのだと。上手く表現するのは難しいのですが、そこにこそ、この映画の持つ力があるのだと思います。決して楽しいといったものではないけれど、とても良い映画です。連休に空いた日があったら、あるいは連休明けでも、見に行ってみてくださいな。ほんとにね。


・・・とまたマジメな感じになってしまいましたが、基本はただの酔っぱらい。おいしいものを食べて、おいしいお酒を飲んで、明るく楽しいGWを過ごしたいと思います。さて、どっか旅行でも行くかな。ではまた。