公園ビール


みなさん、こんばんは。またまた久しぶりのブログです。
いろいろ思うことはあるのだけど、仕事が忙しかったり、帰宅しても英語を勉強したりしなくてはいけなかったりと、自分の思いを何かのかたちに変えていく時間が余りないんだよね。
人間なんてそんな大したものではなくて、思ったことや感じたことを自分なりに何かに(たとえば言葉に)置き換えていかないと、すぐにどこかにある忘却の部屋の中にぽいっと片付けてしまうものだし、それじゃいくらなんでも酷いじゃないかと思うのだけど、やはりサラリーマンのそんな思いは現実の前に儚くも二の次にされてしまったりするものです。
・・・まぁ手っとり早く言えば、ただの言い訳です。いやはや不甲斐ない。


さてさて、そんな不甲斐なさを少しは解消すべく、先週末は久しぶりに『公園ビール』をしてきました。
『公園ビール』という言葉になじみのない人もいるかもしれないけど、これはちょっと考えればすぐにわかります。そうです、ただ公園でビールを飲むだけです(考えなくてもわかるね)。ただ、個人的には簡単だけど満たすべき条件がいくつかあります。それは、

○ 駒沢公園であること(毎週ランニングしているから何となくね)。
○ 給水塔の近くの売店の前のベンチでビールを飲むこと(空がよく見える)。
○ ビールを飲む前に公園を一周歩くこと(ただビールを飲むだけではない)。
○ 余計なことは話さないこと(何となく無粋)。
○ とにかくぼぉっとすること(全てはここからはじまる)。

・・・こうやって列挙してみると、どれもこれも大したことはないけど、こういった些細なルールって、何かの儀式みたいでそれなりに意味があるものなんです、きっと。

さて、本題に戻って、『公園ビール』のいいところとは何でしょう。
例えば、遊んでいる子どもがかわいいとか、夕方の空に細い雲ほどけていく模様がとてもきれいだったりとか、車の音や音楽が聞こえないとか、それこそたくさんあるのだけど、そんなことの根底にあるのは、そこにあるものが『自分にあまり関係ない』ということ。

もっと正確に言うなら、いつも自分が存在している関係性とは違うものの中にいると感じること。必要で大切であると思うからこそ、ときに押しつけがましくもある関係から一歩離れて、もっと希薄で静かな空間へと移動すること。

日曜の公園で、ビールを飲みながらぼんやりと夕暮れの空を眺めていると、『あぁ、自分のいろんな思いって、良きにしろ悪しきにしろ、そんなたいしたものじゃないんだな』って思えるんだよね。『何かをがんばることだけが大切ってわけでもないんだよな』ってね。もちろん、そんなこと言いながら、また月曜日になれば会社に行ってパタパタとパソコンのキーボードを打っているわけだけど。


あなたの周りにあるもので、あなたがほんとに大切と思えるものってなんだろう?


そうやってどこまでも考えていくと、そこに残るもののあまりの少なさに不安になる人もいるかもしれない。
でも、人が生きるって、もしかしたらそんなものなのかもね。大切にしたり、大切にされたりしないと普通に生きていくことは困難なのだろうけど、そんな思いの奥深くに、ほんとに大切なものなんてあるのだろかって不安みたいなものがあったりするからこそ、どこかで『大切なもの』にたいして敏感になっているもかもしれない。

そして、もしそうだとしたら、人が生きるってとてもシンプルなんじゃないかな。
どこにいても何をしてても、それと同時に、人は公園でぼんやりと空を眺めているのかもしれない。関係性の中にいつつも、実はそんな関係性なんか存在しないのかもしれない。何かに関係しつつも、何にも関係していないのかもしれない。


『よくわからないなぁ』と言う人は、とりあえず『公園ビール』をしてみてください。それでもよくわからないとは思うけど、秋の公園でビール飲むのは間違いなく気持ちいいと思います。もちろんビールが好きであることが前提ですけど(笑)


さて、画像は駒沢公園・・・というのはウソ。さてどこでしょう?
別にアメリカナイズされているわけではないけど、こういう感じに広々と空が見える公園がぼくは好きです。ではまた、ごきげんよう