もしそこに私がいたなら

poriporiguchi2009-12-07

こんばんは。
時が過ぎゆくのは早いもので、気がつくと今年も12月に入り、残すこところ一ヶ月を切りましたね。12月は忘年会やらクリスマスやらと何かとイベントの多い月なので、普段はTOEFLとたまにある飲み会の日程くらいしか書いていないぼくの手帳にも、いつになく多くの予定が書き込んであります。


ここ2,3ヶ月は来年からのアメリカ留学のため、大学院への出願準備と英語の勉強に追われ、平日も週末もそれをメインに生活を送ってきまいたが、今月から来月初旬の出願に向けてそれなりに目途がついてきたので、最後のひとがんばりということはあるにせよ、だいぶ時間と気持ちの上で余裕が出てきました。出願しても合格するかどうかはもちろんわかりませんが、そんなことを気にしていても仕方がないしね。


そういったわけで久しぶりのブログになるのですが、今日は最近見に行った『戦場でワルツを』という映画について書いてみようと思います。
この映画はイスラエル軍レバノンに侵攻した際に引き起こされたパレスチナ人難民キャンプにおける虐殺(サブラ・シャティーラの虐殺)に関するもので、当時のイスラエル軍に従軍した監督自身が、欠落している虐殺についての記憶を、様々な関係者へのインタビューを通じて取り戻していく過程をアニメーションで描いたものです。


関係者のインタビュー(実際のインタビューの音声を使用)、インビュイーの回想シーン、監督自身に残る一つのイメージ、そしてインタビューを通じて少しずつよみがえってくる記憶が、複雑で幻想的な映像とシンプルで限りなく現実に近い映像とによって巧妙に描かれていきます。そこに現れる一人一人の人々の目を通じて語られる記憶を前にして、あたかも映画を見ている自分自身も監督の記憶を取り戻すプロセスに参加しているかのように思えてきます。
そして監督が行き着いた最後の記憶の中の光景を前に、それをともに体験するぼくは言葉を失い、ただただそこにある圧倒的なまでの現実に目を凝らすしかありませんでした。


監督がアドバイスを求める心理学者は「戦場カメラマンが悲惨な状況に心理的に耐えられるのは、レンズを通してそこにあるものを見ているからだ」と言います。この映画の中で監督が行っているプロセスは、過去のトラウマによって無意識に自分にセットされた防御装置を外すことで、自分から「レンズ」を外す過程であったと言うことができるでしょう。それと同時に、映画を見ている者についても過程を共有する中で、報道というある種の「レンズ」を外され、兵士として、ジャーナリストとして、そこにいたかもしれない誰かとしての加担、責任、倫理といった問題をつきつけられているように思えるのです。


正直に言ってかなり重い内容で、人によっては見なければよかったということもあるかも知れませんが、いわゆる戦争や虐殺における善と悪といったものを扱った映画とはまた違うかたちで語られない記憶や物語を表現した優れた映画であると思うので、興味がある方は見てみてください。


さて、最近は週末でも外に飲みに行かずに家で鍋を食べることも多くなってきたのだけど、鍋って野菜もたくさん食べられるし、体も温まるし、いいものですね。日曜の夜にNHKの「坂の上の雲」を見ながらほくほくと鍋をつついてたりすると、何だかしみじみと「今年ももう少しで終わるんだなぁ」なんて思ったりします。というわけでおいしい鍋の作り方についてちょっと調べて試してみよっかなと思う今日この頃です。
ではでは、みなさん、今年も残すところもう少し、心の中に思い残すことのないように日々粛々と過ごしてまいりましょう。