はっきりしない

新しい年になっても時が過ぎるのは早いもので、気がつけばもう1月も中旬になっていました。
あまりに遅すぎるかも知れませんが、新年明けましておめでとうございます。
年末年始は暦が良くなくて例年のように長期の休暇というわけにはいきませんでしたが、久しぶりに自宅に帰ってゆっくりと過ごしました。

ぼくが小さい頃、我が家の正月は大晦日から飲んべえが集って飲み通し、子ども達もその中に交じってちょっとした喧噪の中で新年を迎えるというのが常だったのだけれど、そんなメンバーにも次々とかわいい孫ができ、家族との時間を重視するようになるにつれて、新年の挨拶とその場での酒量がほどほどなっていったせいか、ここ数年は家族で静かに過ごす時間が多くなりました。

今年は、昨年は多忙のために帰ってこられなかった外科医の次兄の都合もつき、久しぶりに家族全員で迎える正月となりました。静かに酒を飲みつつも、夏に控えているぼくの留学、次兄の転勤等でこういう正月も次はいつになるのかな、とふと考えてみたりするにつけ、当たり前なのだけど、家族もみんなそれぞれに歳を重ねているのだな、と感じたりしました。

新年の挨拶などの合間、自分の部屋で一人、偶然見つけた昔の日記などを読んでいているうちにぼんやり感じたのが、自分は入試や就職といった人生における岐路に立ったとき、僅かながらでも何かしらの信念や確信のようなものを持って進む方向を決められたことがないということ。
学校や学部を選んだのもなんとなくであれば、就職先を決定したのも、とてもぼんやりとした曖昧な理由からでした。就活をしている友達が明確にそれぞれの志望理由などを語っているのを聞くにつけ、なぜ自分は逆に、考えれば考えるほど心の中にある曖昧な感覚が、職業といったものから乖離していくのかと少し不安に思ったものです。
そんな中にあっても、その曖昧な感覚を頼りに進んできたというのが正直なところなのですが、そこから振り返って今の生き方を考えると、決して劇的なことがあったわけではないけれど、なんだかんだで間違った方向へ進んでいるわけではないのだと思えるのです。

そして、今年から数年間、具体的には30歳くらいまでは、ぼくが自分自身に対して明確に何かしらの変化を求めていくべき期間であると何となく感じています。それは職業といった社会における位置づけのようなものにおいてではなく、自分自身や社会に対する関わり方において、自分の曖昧な感覚を少しずつ具体化していこうということです。
結果としてそれがどのような形になるか、あるいは何にもならないのかもわかりませんが、そのような取り組みをすることでまた良い方向に進めるのではないかと、これまた曖昧に感じているのです。

そんなわけで、今年も一年、ここではないどこかへ向かって少しずつ進んで行こうと考えています。今年もいろいろとお世話になる方もいらっしゃるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。


写真は雪景色の白川郷
こういう景色の中にポツンと佇んでいると自分が送っている生活とか様々な思いとかって一体何だろう?とふと思ってしまいますよね。