Turn


IRPSのクラスメートにマリコという日本人の女の子がいる。
小柄で黒髪のショートカット、服装は特におしゃれという感じでもないのだけれど、いつもさっぱりとした感じ。学校で会うと、遠くからでも手を振りながら『先輩!』と声をかけてくる。朝早くからとても元気で、あまり朝に強くないぼくは彼女が授業などについていろいろと話したりしているのをふむふむと聞いているだけ。『いつも朝から元気だよね』と言うと、『そう、先輩ももっと元気を出さないと』と笑いながらぼくの肩をポンとたたく。


彼女に最初に会ったのはPREPの英語の授業。となりに大学時代の学部長に似た女の子がいるな、と思っていたら、『もしかして日本から来ている方ですか』と彼女から声をかけてきた。どうやらぼくをほかの日本人学生と勘違いして話かけたみたいだったのだけれど、それがきっかけになって、だんだんと会話を交わすようになっていった。

初めて会った時からマリコはぼくのことを『先輩』と呼び続けている。最初は23歳の女の子に『先輩』と呼ばれることに少し違和感を覚えたのだけれど、今となっては慣れてしまって特に何も感じない。おそらく彼女は中学生が上級生を呼ぶようにして『先輩』と呼んでいるだけなのだろう。ただ、彼女はおそらく、ほとんどの23歳の日本人の女の子が28歳の男性のことを『先輩』とは呼ばないことを知らない。マリコは日本で生まれて中学まで日本の学校に通い、高校からは中国の学校に通い、今年、北京大学を卒業してUCSDに来ている。

そのせいもあってか、『先輩』も含めて、マリコの日本語は注意深く聞くと少し変わっている。彼女は中国語、日本語、英語の3か国語を話すことができるのだけど、本人が言うには一番得意なのは中国語、次が日本語、そして英語。もちろん英語もぼくなんかよりはずっと上手く話すことができる。日本語より中国語が得意なのは、高校からずっと中国にいたからということもあるのだろうけど、もっと大きな理由がある。彼女の両親は中国人で、彼女は小さいころから家庭では中国語を話して育ってきたのだ。どういう過程で彼女が日本国籍を選ぶことにしたのかはよくわからない。そこには複雑な理由があるのかもしれない、と思う。あるいは特にそういうこともなく、とても明確でシンプルな理由で、誰にでも気軽に話せることなのかもしれない。ただ、ぼくは、少なくとも今はまだ、それについて聞くには早すぎるような気がしている。

こういう言い方は偉そうに聞こえてしまうかもしれないけど、マリコはとても頭がいい。授業について話しているときも、一緒にスタディーグループを組んだ時も、その端々に『この子は賢いんだろうな』と思わせるものがある。そして、ただ頭がいいだけでなく、物事も進め方もとても的確で要を得ている。はっきり言ってなかなかいないタイプの女の子だと思う。おそらく、就職活動をしたら、ほとんどの会社が彼女を喜んで迎え入れるだろう。


PREPが終わる少し前に、日本人の友人夫妻の家で、スタディーグループの打ち上げのようなことをしているとき、彼女は静かに自分の悩みについてその場にいた友人たちに話し始めた。将来どのような仕事に就くべきだと思うか、どの国で働くべきだと思うか、その場合に両親の国籍や自分の生い立ちはデメリットになると思うか。友人はしっかりと考えた上で、とてもプラクティカルで有益なアドバイスをしていたけれど、ぼくはあまりたいしたことを言うことができなかった。なぜなら、うまく想像がつかないその状況の中に自分を置いて考えることができなかったからだ。両親が中国人で、自分が日本人だということ、アメリカに留学して、将来はアメリカか日本で就職したいと思っていること、その一つ一つがぼくにとってはすんなりと理解できるものではない。おそらく考えてもわからないことがたくさん残るだろう。

その後もマリコはぼくの友人に就職についての相談をしている。彼はとても知識が豊富で、彼のアドバイスはぼくが聞いていてもとても為になる。彼女もそれを踏まえて自分なりにいろいろ考えているようだ。アメリカの就職活動は実質的にM1の10月から始まっているようで、授業にインターンの説明会にと忙しくしていた彼女だったが、最近、ぼくには彼女が他の何かについて悩んでいるように見える。彼女自身もはっきりとはわかっていないかもしれないし、他人であるぼくがわかるわけもないのだけれど、それはおそらく彼女のアイデンティティーに関することなのだろう、と何となく思う。何気ない会話をするなかにそれを感じる。普段の彼女はもちろん悩みなんかないようにふるまっている。でも、おそらく彼女は悩んでいる。

マリコの悩みを解決できるのはマリコしかいない。日本の業界事情や就職に関するアドバイスをすることができても、彼女が何に基づいてそれを決定していくかについて、有効なアドバイスをできる日本人はほとんどいないだろう。そして、大学院を卒業して、就職してからもなお、それがポジティブに働くかネガティブに働くかの違いはあろうとも、彼女が抱えているものがどこかの段階で自然にすっと消えてなくなることはないだろう。結局のところ、人が生きていくというのはそういうことなのだ。

そして、そんなマリコの姿を見るにつけ、いくら英語ができたって、勉強ができたって、そんなものは生きていく上での『おまけ』みたいなものにすぎないのだろうと思う。自分を表現するツールをいくら持ったところで、表現すべきものを直視しない限りはどこにもいけないし、それに向き合って初めて、どこまでも広がる暗闇のなかに小さな一歩を踏み出すことができる。そして、自分の足音に耳を澄まし、ここではないどこかに歩き出すことができる。


ぼくの好きなTravisというバンドの『Turn』という曲の歌詞に、次のような一節がある。


I want to sing To sing my song (自分の歌を歌いたいんだ)
I want to live in a world where I belong (自分の属する世界で生きていたいんだ)
I want to live I will survive (生きていきたいんだ 生き抜いていく)
And I believe that it won't be very long (きっといつかそれができるはず)

If we turn, turn, turn, turn, turn (もがいて もがいて もがいているうちに)
turn, turn, turn, turn, turn (きっと何かつかめるだろう)
If we turn, turn, turn, turn, turn (もがき続けるなかで ぼくたちは何かを学ぶのだろう)
Then we might learn


自分の属する世界がまだどこだかわからないかもしれないマリコよりもTravisのほうが少し有利なところにいるのかもしれないけど、もがき続けるなかで何かをつかみ、マリコを含めたぼくたちが何かを学ぶことができたらいいな、と心から願っている。どうやってTurnするかを学ぶことを、そして自分なりにうまくTurnできるようになることを、人は大人になると言うのかもしれない。