はっきりしない

新しい年になっても時が過ぎるのは早いもので、気がつけばもう1月も中旬になっていました。
あまりに遅すぎるかも知れませんが、新年明けましておめでとうございます。
年末年始は暦が良くなくて例年のように長期の休暇というわけにはいきませんでしたが、久しぶりに自宅に帰ってゆっくりと過ごしました。

ぼくが小さい頃、我が家の正月は大晦日から飲んべえが集って飲み通し、子ども達もその中に交じってちょっとした喧噪の中で新年を迎えるというのが常だったのだけれど、そんなメンバーにも次々とかわいい孫ができ、家族との時間を重視するようになるにつれて、新年の挨拶とその場での酒量がほどほどなっていったせいか、ここ数年は家族で静かに過ごす時間が多くなりました。

今年は、昨年は多忙のために帰ってこられなかった外科医の次兄の都合もつき、久しぶりに家族全員で迎える正月となりました。静かに酒を飲みつつも、夏に控えているぼくの留学、次兄の転勤等でこういう正月も次はいつになるのかな、とふと考えてみたりするにつけ、当たり前なのだけど、家族もみんなそれぞれに歳を重ねているのだな、と感じたりしました。

新年の挨拶などの合間、自分の部屋で一人、偶然見つけた昔の日記などを読んでいているうちにぼんやり感じたのが、自分は入試や就職といった人生における岐路に立ったとき、僅かながらでも何かしらの信念や確信のようなものを持って進む方向を決められたことがないということ。
学校や学部を選んだのもなんとなくであれば、就職先を決定したのも、とてもぼんやりとした曖昧な理由からでした。就活をしている友達が明確にそれぞれの志望理由などを語っているのを聞くにつけ、なぜ自分は逆に、考えれば考えるほど心の中にある曖昧な感覚が、職業といったものから乖離していくのかと少し不安に思ったものです。
そんな中にあっても、その曖昧な感覚を頼りに進んできたというのが正直なところなのですが、そこから振り返って今の生き方を考えると、決して劇的なことがあったわけではないけれど、なんだかんだで間違った方向へ進んでいるわけではないのだと思えるのです。

そして、今年から数年間、具体的には30歳くらいまでは、ぼくが自分自身に対して明確に何かしらの変化を求めていくべき期間であると何となく感じています。それは職業といった社会における位置づけのようなものにおいてではなく、自分自身や社会に対する関わり方において、自分の曖昧な感覚を少しずつ具体化していこうということです。
結果としてそれがどのような形になるか、あるいは何にもならないのかもわかりませんが、そのような取り組みをすることでまた良い方向に進めるのではないかと、これまた曖昧に感じているのです。

そんなわけで、今年も一年、ここではないどこかへ向かって少しずつ進んで行こうと考えています。今年もいろいろとお世話になる方もいらっしゃるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。


写真は雪景色の白川郷
こういう景色の中にポツンと佇んでいると自分が送っている生活とか様々な思いとかって一体何だろう?とふと思ってしまいますよね。

もしそこに私がいたなら

poriporiguchi2009-12-07

こんばんは。
時が過ぎゆくのは早いもので、気がつくと今年も12月に入り、残すこところ一ヶ月を切りましたね。12月は忘年会やらクリスマスやらと何かとイベントの多い月なので、普段はTOEFLとたまにある飲み会の日程くらいしか書いていないぼくの手帳にも、いつになく多くの予定が書き込んであります。


ここ2,3ヶ月は来年からのアメリカ留学のため、大学院への出願準備と英語の勉強に追われ、平日も週末もそれをメインに生活を送ってきまいたが、今月から来月初旬の出願に向けてそれなりに目途がついてきたので、最後のひとがんばりということはあるにせよ、だいぶ時間と気持ちの上で余裕が出てきました。出願しても合格するかどうかはもちろんわかりませんが、そんなことを気にしていても仕方がないしね。


そういったわけで久しぶりのブログになるのですが、今日は最近見に行った『戦場でワルツを』という映画について書いてみようと思います。
この映画はイスラエル軍レバノンに侵攻した際に引き起こされたパレスチナ人難民キャンプにおける虐殺(サブラ・シャティーラの虐殺)に関するもので、当時のイスラエル軍に従軍した監督自身が、欠落している虐殺についての記憶を、様々な関係者へのインタビューを通じて取り戻していく過程をアニメーションで描いたものです。


関係者のインタビュー(実際のインタビューの音声を使用)、インビュイーの回想シーン、監督自身に残る一つのイメージ、そしてインタビューを通じて少しずつよみがえってくる記憶が、複雑で幻想的な映像とシンプルで限りなく現実に近い映像とによって巧妙に描かれていきます。そこに現れる一人一人の人々の目を通じて語られる記憶を前にして、あたかも映画を見ている自分自身も監督の記憶を取り戻すプロセスに参加しているかのように思えてきます。
そして監督が行き着いた最後の記憶の中の光景を前に、それをともに体験するぼくは言葉を失い、ただただそこにある圧倒的なまでの現実に目を凝らすしかありませんでした。


監督がアドバイスを求める心理学者は「戦場カメラマンが悲惨な状況に心理的に耐えられるのは、レンズを通してそこにあるものを見ているからだ」と言います。この映画の中で監督が行っているプロセスは、過去のトラウマによって無意識に自分にセットされた防御装置を外すことで、自分から「レンズ」を外す過程であったと言うことができるでしょう。それと同時に、映画を見ている者についても過程を共有する中で、報道というある種の「レンズ」を外され、兵士として、ジャーナリストとして、そこにいたかもしれない誰かとしての加担、責任、倫理といった問題をつきつけられているように思えるのです。


正直に言ってかなり重い内容で、人によっては見なければよかったということもあるかも知れませんが、いわゆる戦争や虐殺における善と悪といったものを扱った映画とはまた違うかたちで語られない記憶や物語を表現した優れた映画であると思うので、興味がある方は見てみてください。


さて、最近は週末でも外に飲みに行かずに家で鍋を食べることも多くなってきたのだけど、鍋って野菜もたくさん食べられるし、体も温まるし、いいものですね。日曜の夜にNHKの「坂の上の雲」を見ながらほくほくと鍋をつついてたりすると、何だかしみじみと「今年ももう少しで終わるんだなぁ」なんて思ったりします。というわけでおいしい鍋の作り方についてちょっと調べて試してみよっかなと思う今日この頃です。
ではでは、みなさん、今年も残すところもう少し、心の中に思い残すことのないように日々粛々と過ごしてまいりましょう。

公園ビール


みなさん、こんばんは。またまた久しぶりのブログです。
いろいろ思うことはあるのだけど、仕事が忙しかったり、帰宅しても英語を勉強したりしなくてはいけなかったりと、自分の思いを何かのかたちに変えていく時間が余りないんだよね。
人間なんてそんな大したものではなくて、思ったことや感じたことを自分なりに何かに(たとえば言葉に)置き換えていかないと、すぐにどこかにある忘却の部屋の中にぽいっと片付けてしまうものだし、それじゃいくらなんでも酷いじゃないかと思うのだけど、やはりサラリーマンのそんな思いは現実の前に儚くも二の次にされてしまったりするものです。
・・・まぁ手っとり早く言えば、ただの言い訳です。いやはや不甲斐ない。


さてさて、そんな不甲斐なさを少しは解消すべく、先週末は久しぶりに『公園ビール』をしてきました。
『公園ビール』という言葉になじみのない人もいるかもしれないけど、これはちょっと考えればすぐにわかります。そうです、ただ公園でビールを飲むだけです(考えなくてもわかるね)。ただ、個人的には簡単だけど満たすべき条件がいくつかあります。それは、

○ 駒沢公園であること(毎週ランニングしているから何となくね)。
○ 給水塔の近くの売店の前のベンチでビールを飲むこと(空がよく見える)。
○ ビールを飲む前に公園を一周歩くこと(ただビールを飲むだけではない)。
○ 余計なことは話さないこと(何となく無粋)。
○ とにかくぼぉっとすること(全てはここからはじまる)。

・・・こうやって列挙してみると、どれもこれも大したことはないけど、こういった些細なルールって、何かの儀式みたいでそれなりに意味があるものなんです、きっと。

さて、本題に戻って、『公園ビール』のいいところとは何でしょう。
例えば、遊んでいる子どもがかわいいとか、夕方の空に細い雲ほどけていく模様がとてもきれいだったりとか、車の音や音楽が聞こえないとか、それこそたくさんあるのだけど、そんなことの根底にあるのは、そこにあるものが『自分にあまり関係ない』ということ。

もっと正確に言うなら、いつも自分が存在している関係性とは違うものの中にいると感じること。必要で大切であると思うからこそ、ときに押しつけがましくもある関係から一歩離れて、もっと希薄で静かな空間へと移動すること。

日曜の公園で、ビールを飲みながらぼんやりと夕暮れの空を眺めていると、『あぁ、自分のいろんな思いって、良きにしろ悪しきにしろ、そんなたいしたものじゃないんだな』って思えるんだよね。『何かをがんばることだけが大切ってわけでもないんだよな』ってね。もちろん、そんなこと言いながら、また月曜日になれば会社に行ってパタパタとパソコンのキーボードを打っているわけだけど。


あなたの周りにあるもので、あなたがほんとに大切と思えるものってなんだろう?


そうやってどこまでも考えていくと、そこに残るもののあまりの少なさに不安になる人もいるかもしれない。
でも、人が生きるって、もしかしたらそんなものなのかもね。大切にしたり、大切にされたりしないと普通に生きていくことは困難なのだろうけど、そんな思いの奥深くに、ほんとに大切なものなんてあるのだろかって不安みたいなものがあったりするからこそ、どこかで『大切なもの』にたいして敏感になっているもかもしれない。

そして、もしそうだとしたら、人が生きるってとてもシンプルなんじゃないかな。
どこにいても何をしてても、それと同時に、人は公園でぼんやりと空を眺めているのかもしれない。関係性の中にいつつも、実はそんな関係性なんか存在しないのかもしれない。何かに関係しつつも、何にも関係していないのかもしれない。


『よくわからないなぁ』と言う人は、とりあえず『公園ビール』をしてみてください。それでもよくわからないとは思うけど、秋の公園でビール飲むのは間違いなく気持ちいいと思います。もちろんビールが好きであることが前提ですけど(笑)


さて、画像は駒沢公園・・・というのはウソ。さてどこでしょう?
別にアメリカナイズされているわけではないけど、こういう感じに広々と空が見える公園がぼくは好きです。ではまた、ごきげんよう

尾瀬をあるく


みなさんこんばんは。
なんだか梅雨が明けてもすっきりとしない天気が続きますね。梅雨はまだ明けていないのではないか、と思うのはぼくだけなのでしょうか。と言うか、これを梅雨明けと言うのならば、梅雨明けということにどんな意味があるのだろう??
・・・とまぁここらへんで気象庁に難癖をつけるのはやめて、三連休のこと。


そもそも飲み会の席で『7月の3連休で鹿児島へ行こう!』と始まった話が、いろいろな紆余曲折を経て、なぜか『尾瀬を歩こう!』という企画になり、それからラフティングやら伊香保温泉やらが加わって、『群馬県自然満喫の旅』みたいな感じとなった今回の旅行。


天気予報では、三連休の最終日を除いて群馬県は雨ということでしたが、ぼくの普段の行いを神様が見ていて下さったためか、ラフティングや尾瀬のトラッキングといったタイミングでは雲の間から太陽がのぞき、群馬の自然を満喫することができました。


雨のために水量が普段の3倍という中でのラフティングはスリリングかつダイナミックで楽しかった(もう一回やりたい!)けど、何と言っても20キロにわたる尾瀬のトレッキングは、期待していたよりもずっと素敵なものでした。
これがあの尾瀬?と思いながら黙々と山を登り続け、ふと顔を上げると広がっていた青空と、風になびく高原の緑。
途中から降り始めたにわか雨をうけ、ヤンキースのキャップのひさしからポタポタと落ちる水滴。ぬかるんだ急な下り坂を泥だらけになりながら下りきると、雲の間から陽光がさし、どこまでも広がった湿原を緑に照らしていく。
湿原の中を地平線まで伸びる木道を、何も考えずに歩きながら、なにか大きなものに包まれたようで静かな気持ちになりました。
街での普段の生活を否定するつもりはないけれど、やはり自然の中を自分の足で歩き続けることも体は必要としているんだなって思ったりしたりね(もう一回やりたい!・・・?)。


夜は伊香保の温泉でほっくり。疲れ切った体を温泉のお湯に浸し、こんな露天風呂(源泉かけ流し)が自分のアパートにもあれば、とありえない想像をしてみたりね。ほんと温泉っていいものです、うん。


こうやって社会人になって、気の置けない人たちと旅をするのはいいものです。仕事のことやプライベートのこと、生活のなかで感じてはいるけどなかなか話すことのできない率直な思いとかを話し、環境が違うからこそ曇りの少ない鏡としてうつる自分のことをはっきりと感じることができる。もちろんそれは、そこにいる人たちがそれぞれに自分の生活を一生懸命生きているからなのでしょう。そんなとき、ふと歳をとるのってそんなに悪くないな、と思ったりするんだよね。


というわけで、こんなブログを書いていたらいつの間にか27歳の誕生日を迎えました。例によってあまり『歳をとる』という実感は湧かないので、いつものように静かな部屋でビールを飲みながら本を読み、眠くなったら寝ようと思います。そして明日起きたら(確か生まれたのは午前6時くらいだから)文句なく27歳になっているわけです、きっと。ではまた、みなさんもごきげんよう

写真は陽の注ぐ尾瀬の湿原に咲くニッコウキスゲ。一面に咲き乱れていてとてもキレイだった。

死なないでいる理由

poriporiguchi2009-07-08

こんばんは。
何だかんだでいつの間にか前の更新から2ヶ月ほど経ってしまいましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
特に何があったわけじゃないし、何も書くことがなかったというわけじゃないのだけれど、ふと気がつくと7月に入っていました。
そんな間に東京は梅雨に入り、どんよりとした曇り空にシトシトと雨がふる毎日。やはり、これほど精神衛生に悪い影響を与える天候もないだろうね。かつてを思い出せば、雨がいつまでともなくふり続く中、部屋でじっと何かを思い悩んでいたのは、ほとんど梅雨の時期だったように思います。こんな今もどこかで誰かが部屋の中でどこにも行きようもない思いにふけっているのかも知れない、とふと思ってみたり。
まぁそんなことを言っている僕は、いつもどおりクーラーのきいた部屋で涼みなら、ぼんやりと何となく生きています。


仕事の話をしても仕方がないので(そして普通の人にとってわかりやすい指標ではないと思うので)、プライベートの話(といえば相変わらず本の話)をすると、2か月前に更新したときから、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み、鷲田清一の『死なないでいる理由』を読み、村上春樹の『1Q84』を読み、ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』と『世界のすべての7月』を読み、今はドストエフスキーの『悪霊』を読んでいます。こうやって文字にしてみると、仕事をしながらということを考えればそこそこ本を読んでいるんだな、と思って自分を励ましてみたり。
映画では最近で言えば恵比寿ガーデンシネマで『扉をたたく人』を見て、DVDで『潜水服は蝶の夢を見る』を見ました。


読んだ本に関して言えばすべておもしろかったけれど、やはり『1Q84』は特別な思いを持って読みました。
物語の中心にあるのはお互いに惹かれ合う若い男女の話。その者の持つ誇らしい何かではなく、自分の過去が欠落するが故に惹かれ合っていく姿を短編小説を思わせるような丹念な人物描写を通して語っていきます。


村上春樹の作品を長編から短編までそれなりに読んでいる人であれば、そこかしこに今までの作品の風景やモチーフを思った人もいるでしょう。村上春樹が『総合小説』を目指していると言ったように、この小説には少なからず彼自身の世界観の総体のようなものが現れているように思います。まだ読んでいない人もいると思うので内容にはふれないけれど、様々な考え方はあれ、紛れもなく『物語の力』を感じることのできる作品です。ふつうに読んでもおもしろい作品なので、まだ読んでない人はぜひ。


こうやって読んだ本や映画について書いていると、すべてのおもしろかった本や映画について書きたくなってしまうのだけど、それだと永遠と記述が続くことになってしまうので、もう一つだけ。鷲田清一の『死なないでいる理由』。


これは題名のとおり、人が生きることについて書かれた本です。社会の発展と共に、人は生きていく上で重要なこと(作る、食べる、排泄する、ケアする、死ぬ等)をシステムに委託するようになり、或いは構造的に不可視的なものとすることで、生きること自体を外部化するようになってきた、と鷲田は言います。世間で言われるところの(人々が行っている)『生活』とは、様々なものの外部化の末に残った一部でしかなく、その意味でかつてほとんどの『生』を家庭で行ってきた時代のように『普通に生きること』は困難になってきており、『普通に生きること』ができない現代の人々はそれのみでは存在し得ない自己のオリジナリティーや生きる意味を求めて悩み苦しんでいる、と。(もっといろいろ書いているけど、とても簡単に言えばこんな感じかな)


きっとそのとおりなんだろうな、と思います。「自分のプライベートを大切に」なんていうけれど、人が生きるということの中心には、本来、持てる時間や金を思う存分自分の趣味に使うことではなく、自分が生きていく上で重要なことに目を向け、それを実践していくことがあるのでしょう。職業と人のアイデンティティーとの関わりについても、職業を通じて自分の夢を実践していくといった積極的な意味ではなく、人間が外部化した『生きること』をシステムとして受容している『仕事』に関わることなくして、人が自己の生を実感することが難しくなってきているからこそ、仕事は金を稼ぐ以上の意味を持つものとして、自己と他者のコミュニケーションの場として、人の『生』の大きな部分を占めうるものなのだろうと思います。


そして鷲田は『恋愛』についてこう言います。他者との関係においても、絶えず自己のアイデンティティーや生きる意味といったものに悩み続ける人が、特別で唯一な他者であるパートナーに求めることは、その関係においてだけは『普通に生きられる』という状況なのだと。その人とともにいれば、アイデンティティーや意味などとは違うところで受け入れられ、認められるという関係なのだと。キザな言い方かもしれないけれど、愛といった日本人(ぼくだけかもしれないけど)にはなじみにくい言葉も、そう言われれば何だか頷ける気がします。


・・・とまぁ、久しぶりだったから長くなってしまいました。
潜水服は蝶の夢を見る』もとてもおもしろかったけど、ここらへんにしときます。これもまた違った意味で、人が生きるということについての素晴らしい映画です。興味がある人は自分で見てください(笑)
憂鬱な天気が続きますが、あと数週間後にはきっと留保なく晴れ渡った夏の空が東京にも広がっているはず!!
とりあえずは3連休を目指してがんばっていきましょう。そして3連休が終わったら夏休みを目指してね。
さて、キンキンに冷えたキリンの無濾過ビールを飲みながら『悪霊』を読み進めることにしよう。ではまた。

少しでも前に

poriporiguchi2009-05-10

こんばんは。みなさまGWは楽しく過ごせましたか?
ぼくはと言えば長かった9連休も今日で終わり・・・でも思う存分好きな時間を過ごし、おいしいご飯を食べ、おいしいお酒を飲み続けたせいか、今はそろそろキチンと働いてまたお金を稼がないとなぁという気持ちでいます。


GW辺りには、久しぶりにいろいろな友達と会ったりして、楽しい時間を過ごしたりしました。みんなそれぞれ環境は違えども、自分のいる状況のなかで真剣に暮らし、そういう話をする顔つきも学生時代とは違ったりして、なんか歳をとるのも悪いものじゃないな、と思ったり。まぁそう思わないとやっていけないという面もあるにせよ(笑)


さて、昨日は連休最後の一人の時間として渋谷で『THIS IS ENGLAND』という映画を観てきました。大まかに言えばの少年の成長物語。ただ、それのみならず、サッチャー政権、フォークランド紛争、UKロックといった80年代のイギリスの世相をいわゆるアウトローの視点から切り取った作品でもあります。

父親をフォークランド紛争で失い、学校でいじめられていた主人公の少年が、アウトローの若者とのふれあいの中で人と係わることの喜びを知る一方で、無垢故に自分に親身にふるまう国家主義的な思想を持った男についていく姿には、危うさとともに純粋な喜びも見ることができます。しかし、そんな気の知れた集団においても、やがて社会の縮図を見るような対立や憎しみが大きくなっていき、最後は思想やスタイルなどではない、人の心の奥に潜む思いをめぐって暴力が引き起こされることとなります。


そして、そういった事件を経験した少年は静かに一人で進んでいくことを選びます。そこにいた人々のことを好きだったからこそ、誰を責めるわけでもなく、批判するわけでもなく、それでも前に、少しずつ前へと進んでいくことを静かに心に決めるのです。


80年代のイギリスの状況は現在の正解を覆う閉塞感に通じるところがあるかもしれない。でも、そこにいるのは一人一人の人間でしかない。もちろん国家や社会というシステムの瑕疵はあろうとも、一人の人間としては、身近にいる人の心を理解し、それを赦し、時によっては彼ら彼女らから離れていきながら、自分自身で前へと進んでいくことしかできない。スクリーンに映る少年の最後の眼差しは静かな思いを表現しているように感じました。


東京では渋谷でしかやっていないけど、そんなに混んでいないし(ぼくが観た昼の回はぼくも含めて4人だった・・・)好みは分かれるかも知れないけれど、個人的にはいいと思える映画だった(時代考証とか雰囲気とかを問題の根深さなど、厳密に言うとチグハグで甘い点があることは確かでしょうが、一人の少年の成長物語として)ので、興味があったら見に行ってくださいね。まぁ宣伝過剰な日本の下らない映画を観るよりは全然よい時間を過ごせると思います(あくまで個人的な偏見)。そう言えば、スラムドックもミルクも観ないとなぁ・・・


さて、気がつけばもう日曜日の12時前、『カラマーゾフの兄弟』(亀山訳)を読み進め、明日に備えて早めに眠りにつくことにします。いやぁほんとにすごい小説だよなぁ。かれこれ4回目になるけれど、イワンの『大審問官』なんか、読んでいてこれまで以上に凄味を感じてしまった。そんな小さい幸せを糧に明日からも仕事をがんばろうと思います。みんなも仕事がんばろう!!

それは愛でもなく

poriporiguchi2009-05-03

こんばんは。風の強い夜の2時過ぎです。
最近、ぽかぽかと暖かい日が続くようになりましたね・・・と思っていたら、気がつくと待ちに待ったGW。みなさんは楽しく過ごせていますか?
様々なことを考え、学ぶことも多い一方で、ストレスフルな最近の仕事もようやく中休み。ぼくもこの9連休(ピース!)をのんびりと過ごしていきたいと思っております、はい。


さて、昨日はその連休の初日を良い日にすべく、ずいぶん前から心待ちにしていたクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』を観てきました。アメリカ中西部に住む保守的な白人の老人が、アジア系の青年やその一家との出会いの中で、それまでの生活になかった安らぎを静かに見つけていくというストーリー。前半は何か特別なことが起こるわけではないし、肩肘を張って見る作品ではありません。スクリーンに流れる映像に身を委ね、時にユーモラスな展開に自然と笑みもこぼれます。


しかし、後半になるに連れ、老人は親しい者との関係の中で静かに考えるようになります。自分の生や死に、静かに、時に荒々しく思いを馳せていきます。そしてラストのシーン、差別、暴力、不和、非寛容・・・それらを前に老人がとる行動を前に、観る者は言葉を失います。
抗いがたい暴力性を前にして、老人が静かにとった結末に、人々が住む世界と、そこ生きる一人の人間の係わりの一つのかたちを見ることができます。良きにしろ悪しきにしろ、それについては判断という行為は無意味であるかもしれません。


話は変わるけど(これを読んでる多くの人が知っていると思いますが)、少し前に村上春樹イェルサレム賞の受賞式で『壁と卵』に関するスピーチをしました。彼の言う『壁と卵』は、イスラエルパレスチナのことでもあり、社会というシステムとそれに対する個人のことでもある。そして抗いがたい力を持つ国家や宗教や偏見を前に、あまりに脆弱なものとして存在する人間のことでもある。小説家らしいとてもいいスピーチだったと思います。


僕は村上春樹の作品が好きで、彼の作品は中学校のときから繰り返し読んできているし、僕の人格の少なくない部分に彼の作品の影響があると思っています。受賞の際のスピーチにも心を動かされ、スピーチを取り上げた友人のブログなどを読んで、また心を動かされました。僕も自分なりに声をかけ、知り合いに彼のスピーチを聴いてもらうようにしました。ただ、自分ですぐにブログに書かなかったのは、彼のスピーチをどのように書いて良いのかわからなかったからでもあります。


スピーチに共感する人が増えていけば世界は少しずつ安らぎに満たされていくのか、僕にはよくわかりません。そもそも人が誰かのことを真剣に思うことが、思われる人々にとって良いことなのかどうか、それもわかりません。人に対する思いの善悪は誰にも検証できず、場合によっては良くないものともなりうるからです。カート・ヴォネガットはそれ故に、人の幸福のために大切なのは愛ではなく親切だと言いました(あくまで彼なりの表現方法ですが)。


グラン・トリノ』は世界の底に潜む抗いがたい何かに、一人の人間として静かに答えを出した老人の話であると、僕はそう思っています。いわゆる愛ではなく、いわゆる親切でもない何かを、彼は行ったのだと。人のことを思うと同時に、非常に個人的な生き方を彼は選んだのだと。上手く表現するのは難しいのですが、そこにこそ、この映画の持つ力があるのだと思います。決して楽しいといったものではないけれど、とても良い映画です。連休に空いた日があったら、あるいは連休明けでも、見に行ってみてくださいな。ほんとにね。


・・・とまたマジメな感じになってしまいましたが、基本はただの酔っぱらい。おいしいものを食べて、おいしいお酒を飲んで、明るく楽しいGWを過ごしたいと思います。さて、どっか旅行でも行くかな。ではまた。